兄弟姉妹主にあってお元気ですか?近畿も梅雨入りとなりましたね。

 

ここ2・3年の異常気象を見れば、日本の季節4季が3季になりつつあります。ゆえに、若者も特に高齢者はこまめに水分補給しないとアウトです。高齢者になればなるほどおトイレに行く回数が増えます。だから対策として出来るだけ水分を取らない人が増えて熱中症にかかって病院に搬送される人が増えているのです。

 

それに、気圧の変化で体がだるくなったり、気温が高くなって、おまけに湿度も高くなるので、体に熱がこもりやすくなるから、簡単に熱中症にかかってしまいます。3日前に卓球練習が3時間あり水分補給が十分できていなかったのでせいで、気分が悪くなり、頭がぐらぐらと・・慌てて水分補給し頭に水をかけて冷やしたりと・・本当に慌てました。兄弟姉妹も主にあって健康充満求めて祈られるように強くおすすめ致します。

 

それでは今日のメッセージスタート!!

 

マタイ18:18〜20はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 

ここでイエス様が、「はっきり言っておく」と二回も強調されておられます。

祈りと言うのは地上と天上をつなぐものだと神さまが考えておられるのからです。つまり祈りとは、まさに天と地をつなぐ、大きなパイプの役割を果たしいるのです。

 

以前、礼拝後の祈祷会の時に、

全員、各々、知識と異言で祈り始めしばらくすると天から虹色のガラス張のような透明の大きなパイプのような物が突然、現れて、<これはみんなには見えない>みんなの祈りが誰にも邪魔される事がないように邪魔するものとはつまりサタンです。エペソ6:12「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」空中の権威を持つ支配者として働いている悪霊たちが私たちの祈りが天の父なる神さまの御前に届かないように、空中でとりあげられてしまわないように、その大きなパイプが祈っているみんなの祈りを吸い上げ、天に上って行くのを私が見ました。

 

祈り終わった時

一人の姉妹も「私が異言で祈り始めたら、あたり一面が虹色のようなものが輝いてすごく綺麗でした」と言う証を聞き、私もこんな幻を見たのよと話すと、みんなで祈りは天の父なる神さまのみもとに届いているのねと喜びに満たされました。

 

Ⅰヨハネ5:19には「世全体は悪い者の支配下にある」と書いてあります。ヨハネが「この世」と言うとき、それは単なる世界という意味ではなく、神から離れて堕落した世界という意味です。本来、この世界は神様が人間のために創造されたもので、神様はアダムに「造られたすべてのものを支配するように」と命じられました。ところがアダムはエデンの園の中央には「いのちの木と善悪の知識の木が植えられていました。それには決して触れてもならないと神さまが警告されておられます。17節「それを取って。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

 

しかしアダムは、エバが差し出した善悪の知識の木の実を取って食べると言う罪を犯してしまいます。その木から実を取って食べると言う事は、自分が神のようになって善悪を判断して決めるという事で、これは神への反逆罪です。そのため、アダムとエバはエデンの園から罪人として追放されたのです。同時にこの世を治める権威も失ってしまいました。

 

だから、サタンがアダムに代わって、この世を支配する者となったのです。神様がお造りになった全ての支配権をアダムに与えられえいたのに、それを嘘つき悪魔の言葉に誘惑され、その結果、全ての支配権を横取りされたのです。サタンは罪ある人間を自分の支配下に置き、悪魔手先として働かせるために奴隷にするのです。

 

それだけではありません。

 

悪魔はイエス様も誘惑しています。ルカ4:6「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです」これに対してイエス様は何と答えたでしょう?「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい」と言われました。もともと全宇宙の万物の支配者はイエス・キリストです。悪魔は自分が神になろうとしたその罪の結果、裁かれて暫くの間、この地上を支配することになります。

 

その理由とは良い麦と毒麦・羊と山羊を分けるためです。

だからこの地上は、罪によって堕落した者たちによって絶えず戦争や紛争が起こり、干ばつや水害、悪がはびこり、不正でこの世が汚染されていくのです。それは悪魔がこの世を支配しているからです。今日はここまでにして・・・祈りを忘れないように。。

 

イエスの名によって集まるその真中に主がおられるのです。

マタイ18:19〜20「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」地上で心を一つにしてあつまるところ、それはイエス・キリストのお名前によって集まるところです。そしてそれは二人または三人の集まりでも同様です。確かにひとり静かに密室で祈ることも大切です。でも私たちは、ともに集まって祈るためにこの世から選ばれ、そして召されたのです。

 

教会は祈りの共同体です。一人一人は聖霊様の宿る神の聖なる宮なのです。この罪に満ちた争いが絶えない地上で、信仰によって共に集まって祈るつまり、一つの心になって、全世界の人々のために、悪魔に捕らえられた人々の赦免のために共に祈り合うためです。そのために、私たちは召されたのです。

 

そして何度も言いますが、大勢で祈る祈りの真ん中にだけ神さまがおられるのではなく、集まりの単位が二、三人、何十人、何百人集まっても、主イエス・キリストの御名によって集まるその真中に主がおられるという事実です。

 

ですから、大勢で祈らなければ、目の前の大きな問題や苦しみが取り除かれないのではなく、そこに主の臨在があるか?否かです。主イエス・キリストは約束の主です。この方が「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」と宣言されたのです。

 

大切なのは教会の交わりの中に、今も生きて働いておられる主イエスがおられるか、否かです。

だから安心して祈るべきです。たとえ、2・3人であっても、私たちの交わりの中心に主イエスが「わたしがここにいる」と今日の礼拝でも約束しておられるのです。アーメン。私たちは教会に集まる人数が少なくて寂しさを覚えることがあります。しかし主は、「わたしがあなたがたの交わりの中にいるよ。だから空しくはないよ。」と力つけてくださるのです。

 

挫けそうになっている私たちの心に、常に慰めと励ましを与え、希望と勇気をもって、更に忍耐をもつて信仰によって歩む事ができるように、聖霊さまが導いてくださいます。実に感謝です。

 

ルカ15章4~7節に九十九の羊と迷いでた一匹の羊の事が書いてあります。

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』 と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

 

イエスさまは見失った1匹を探している間、99匹は放っておかれるのか?

これは非常に危険なかけです。ひょっとして99匹の羊が狼に襲われるかもしれない。だから99匹の命を守るほうが得策では?迷いでた羊は諦めたほうが良い。自分で迷いでていったのだから・・99匹と1匹を同じに考えるのは間違いだと普通ならそのように考えるでしょう。それは、人間には損得勘があるからです。「少数を犠牲にしても大多数を救う方を選ぶ」でしょう。

 

99と1ではどちらがより大きいかは明らかだ。どう考えても、99匹の方が大事である。1匹を必死に探している間、99匹は野原に残しているわけでしょ?その間に99匹に何かあったら、どうするの?狼に襲われるかもしれない。そうなったら大損害をこうむるので、手堅く99匹の安全を先ず確保してから、1匹は後で探したら良いのではないのか?

 

この場合、その人の優先順位が何か?一番大事は何かと言う事です。「あなたがどうしたいか。」今のその1匹があなたにとって「大切な人、どうしても探しに行きたい! 悪い人に誘惑でもされたら大変だから放っておけない!」 そう言う思いがあるなら「今」のあなたの思いを最優先すべきです。今という瞬間にあなたの心の中を占める事柄こそが、あなたが気にかかる一番の関心を優先すべきでこれこそが、世界のすべて人と共有すべき価値観なのです。

 

「小さな者の一人が迷い出てしまった。では、あなたがたはどうするの?見て見ぬふりをするのか?

天の父の御心は、小さな者の一人が滅びることを望んではおられません。迷いでた羊の一匹が再び、神さまのところに帰って来る事を望んでおられるからです。

 

ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」19節 「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなtがたのうちのふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 

教会は、イエス・キリストの名によって集まり、主の名によって祈るところです。その交わりの真ん中に主イエスは共にいてくださいます。それは悔い改める事のない99匹を残して、迷いでた一匹を探し求め、再び主の御前に導くための神の力となるからです。そのために神は、御子を人としてこの世にお遣わしになり、十字架の死をもって神のさばきや罪によってもたらされる罰から、救いの道を開いてくださったのです。それだけではなく、イエス様を信じた者には死に勝利し、永遠のいのちを与えてくださるのです。

 

それには、私たちが世の光・地の塩となって滅びゆく人々の前で輝かせる事です。それによって滅びゆく人々を主のもとに導いて行く事が可能のなるので、常に心を合わせて、一つ心になって祈る兄弟姉妹となり、聖霊の導きにより大胆に主イエス・キリストを証しする者がなられますように主の御名により祝福致します。