兄弟姉妹!今日も生きて、信じるものと共に働いてくださる神さまを礼拝出来ましたか?そえとも何時ものように、教会に行かずに、リモート礼拝で終えていないかと少しばかり心配しています。最近、教会に行かなくなった信徒の数が増えているからです。主の日は着実に近くなっています。主にお会いできる準備が必要ですよ。

 

日本においては今の所、どこに住んでいても、信仰の自由が認められています。しかし、共産国には信仰の自由などは一切、有りません。共産国のリーダーが神だと宣言しているので、他に礼拝する者があれば罰せられるからです。

 

ダニエル書にはユダヤ教徒弾圧の中で書かれた書物です。ユダヤを支配したエピファネスは安息日や割礼を禁じ、エルサレム神殿にギリシアの神像を置いて礼拝を強制した。ダニエル書3章に、ネブカデネザル王が建てた金の像の礼拝強制を見れば分かります。

 

ダニエル3:1-6「ネブカドネツァル王は一つの金の像を造った。高さは六十キュビット、幅は六キュビットで、これをバビロン州のドラという平野に建てた。ネブカドネツァル王は人を遣わして・・・高官たちを集め、自分の建てた像の除幕式に参列させることにした・・・高官たちはその王の建てた像の除幕式に集まり、像の前に立ち並んだ。伝令は力を込めて叫んだ『諸国、諸族、諸言語の人々よ、あなたたちに告げる。角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器による音楽が聞こえたなら、ネブカドネツァル王の建てられた金の像の前にひれ伏して拝め。ひれ伏して拝まない者は、直ちに燃え盛る炉に投げ込まれる』

 

シリア統治下のユダヤ人たちはネブカドネツァル王の命令に従い、神殿のゼウス像を拝んだ。バビロンに捕らえられた捕囚民の多くも、ネブカドネザル王の命令に従い、金の像を拝んだ。」と書いてあります。

 

私たち日本の国において、信教の自由を守っていかなくてはなりません。

 

それは、日本という国が今のような信教の自由が与えられたのは、ここ数十年の話で、かつて戦前から戦中、日本の教会は天皇制によって信仰が弾圧されてきたといった歴史的な経緯があります。

 

天皇は人間なのに神として敬わなければならなかったのです。

悲しい話ですが、かつての多くの教会の信徒たちも、積極的に天皇をあがめ、戦争協力に加担していたのです。油断しているとまた以前のような宗教弾圧が始まるか分からない時代でもあるのです。

 

平和主義と言われていた日本が今、「ウクライナとロシヤ」の侵略戦争や中国の「尖閣諸島(沖縄県石垣市)周辺海域」の問題や南シナ海で日本とフィリピンに挑発を重ねている今、日本も武器を手に取り、軍備を増強しようとしています。

 

日本の国も多くのクリスチャンを迫害してきました。しかし、驚くべきことに隠れキリスタンにより信仰が守り続けられ、あらゆる迫害や困難の中でも、今もなお教会は存続し、活動を続けているというこの事実に目を留めるべきです。それは信じる者と共に、神さまが働いて下さったからです。この事実を忘れてはいけません。

 

教会が建てられた当時から、教会は様々な迫害、苦難の連続の中にありましたが、そこに聖霊さまが働いておられたので、教会がなくなるどころか、どんどん増え、そして、福音はますます広がっていったのです。

 

今日の聖書の箇所は正に、宗教弾圧、迫害の場面と言って良いでしょう。

 

イエスさまは十字架で死なれた後、復活され、40日間弟子たちに神の国について、聖霊を待ち望むように教えられてから天に上られました。そして、イエスさまの御言葉の約束通りに、弟子たちに待望の聖霊が注がれたのです。その後、弱虫の弟子たちが大胆に神の国の福音を恐ずに宣教しました。それは聖霊さまのダイナミックな働きによるものです。

 

そして彼らは、イエス様を信じる使徒と信じる者たちが互いの財産を共有し、貧しいものを助けると言う「愛の共同体の教会」が成立していきます。これらの事を見た多くの者たちが彼らを賞賛し、多くの者たちがイエスさまを救い主だと信じて、彼らの仲間に加わって行きました。

 

しかし、この状況を苦々しく見ていた者たちもいました。それは権威や権力を持った側の人たちで、いわゆるパリサイ人、サドカイ人、大祭司といった人たちの反対勢力です。彼らにとってイエスの名による教えは非常に自分たちに都合のわるいものだったからです。

 

さらに言えば、彼らからすると間違ったイエスの教えが民衆に受け入れられ、どんどん自分たちの教えの影響力と比較出来ないぐらい、実際的に強く人々に影響を与えるものだったからです。だから、極めて彼らに取っては不愉快な事だったのです。自分たちの教えていたことが否定されたような気持ちになり、イエス・キリストを信じる者たちの集まる教会を妬むようになります。

 

イエス・キリストの教えには、自分たちの立場に取って常に、イエスさまを十字架にかけた罪からの訴えがあります。だから、今度は使徒たちを捕まえたのです。

 

確かに、クリスチャンであるがゆえに苦難やトラブルに見舞われる事も多いです。しかし、全てのが生きていく人生にには、様々な、辛いことや悲しい事や情けない事など、自分にとって良いことばかりが起こるわけではありません。

 

しかし、神さまを信じる者たちには、神さまの約束の御言葉があります。そして約束された方は真実な方ですから、万事を益としてくださるので、神さまにただ信頼すれば良いのです。

 

ヨハネ16:33「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 

このイエス様の言葉のとおり、権力の力によって獄中の人となった使徒たちは、神の助けによってその囚われの苦難から解放されました。なんと天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出したのです。主の恵みは囚われ人を解放するのです。神様は必ず、私を苦しいところから助けてくださるのです。

 

弟子たちは獄に繋がれていたのです。その獄から助け出してくださったのは神さまです。しかしここで悩みます。イエス様は「さあ、ここから直ぐに逃げなさい。」ではなく、使徒5:20「行って神殿の境内にたち、この命の言葉を残らず民衆に伝えなさい。」驚きます。

 

イエス様の救いを伝えただけで囚われの身になったにも関わらず、さらに使徒たちに敵の陣地の乗り込んで語りつげよと言われたのです。神殿とは彼らに取ってはまさに敵地のど真ん中です。再び捕まる可能性は100%ですよ。

 

神さまは何と残酷なのか?それでも聖霊に満たされた彼らには恐れが有りません。神さまの命令に従って再び救いのメッセージを伝えるために、神殿に向かって走り出したのです。

 

私達も色々な場所で伝道をしましたが?

でも、毎回伝道する時には、邪魔が入りました。最後に行き着いた所は、JR川西池田駅前でした。そこで野外伝道開始して3回目の時に、他の宗教の人からか?近所の方なのか?「声が大きい。マイクを使っているから騒音だ!」警察に苦情の電話が入って来たので、直ちに伝道を中断するようにと警官が二人やって来たのです。

 

すでに伝道の時間が終わりに来ていたので、あと少しで終わります。そう言ってから大きな声で天に向かって両手を上げて祈りました。私達はただイエス・キリストの愛を伝えているだけです。しかし、今、伝道をやめるようにと言われました。神さま!私達を守ってください。そして苦情を訴えている人に神さまの救いがありますように。アーメン。と祈りを終えて伝道も終えました。

 

しかし、次の日曜日もJR川西池田駅前に伝道に行くとまたしても警察の方が来られて、伝道を辞めるように命令してきたのです。私は先週と同じように「私達は神さまの愛を伝えているだけです。」と言うと「あなたはマイクを使っているでしょう。いいえ、自前の声でマイクは使っていませんよ。」ハレルヤ!神さまが私に声量充満されていたので、JR川西池田駅の端から端まで私の声が響きわたっていたのです。

 

月曜日に市役所に行き、警察に行きJRの駅で伝道するには許可がいるのかと調べたら、JR川西池田駅前の公園は、誰でも自由に使って良い場所、だからイスが置いてあるのです。り、その場所は国有地だったのです。主に感謝します。

 

その後、警察は邪魔しなくなりました。ヘブル10:38-39「 わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」イエス勝利です。

 

その時、神様と私達の関係がとても素晴らしい関係であることを気付かされました。信じる者たちに対して神さまは失望に終わる事がないように備えておられているのです。そのときみんなが勝利を体験したのです。

 

弟子たちも、天使の言葉を受けて躊躇することなく直ぐに、天使が命じた通りに神殿に入りイエス様のことを宣べ伝え始めたように、彼らは聖霊充満されていたので、再び捕えられる事への恐れは全くなく「一人でも多くの人々を救うために、命の言葉を届けねば~」イエスの十字架と復活の福音の恵みに生きる者の姿がここにありました。

 

もはや、私の命は主の御手の中にあるという平安と喜びの確信が弟子たちの心に、栄光子羊教会の奉仕者一人ひとりに与えられていたので、誰一人恐れ退くものがなかったのです。使徒たちは恐怖がもたらす圧力から開放されていたので、恐れは全く見えません。そこにあるのは聖霊の力と福音の恵みによって生きる喜びだけです。

 

たとえ、体が縛られることがあっても、神の言葉と主イエスへの信仰を縛る事は出来ません。Ⅱテモテ2:9「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。」実際、彼らはすぐに捕らえられます。

 

そして、大祭司たちはイエスの名を語ること、イエスへの信仰を捨てるようにと、権力者から弾圧、プレッシャーをかけられ、権力の鎖で使徒たちの心を縛ろうとしますが、使徒たちの心を縛る事は出来ません。それは、彼らの心にはイエス様がいつも共におられたからです。

 

そして、彼らはイエスへの信仰を縛ろうとする世の権力者たちに向かっ堂々と「人に従うより、神に従うべきです。」正解です。私もこのような状況になった時、正直自信はありませんが、彼らと同じように告白できる者であると信じます。

 

社会で生きる時、周りの人間はあなたを権力、暴力、同調圧力、プレッシャー、恐れといったものを使って従わせよう、支配しようとする事があります。

 

もし人を恐れ、人に聞き従うなら、身体は自由であるようでも、心はサタンに支配されがんじがらめに拘束されるのです。しかし、神に従ううならどうでしょう。ガラテヤ5:13−14「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』

 

私たちが神に従う理由はどこにあるでしょうか。

 

恐れでしょうか、見返りでしょうか。いいえ、違います。罪によって縛り付けられた囚人であったこの私を、十字架の贖いをもってイエス・キリストが命をかけて私達を罪から、滅びから救い出してくださった。この神さまの十字架の愛への応答のゆえにです。

苦しみも痛みも不安も嘆きも恐れもイエス様が全て身代わりに受け取ってくださったのです。もはやそこには恐れはありません。全き愛が恐れを締め出してくださったからです。信教の自由が与えられている私達が、全世界の信仰の自由を守るために祈って行きましょう。