またしても悲報です。私が尊敬する先生が亡くなられました。肺がんです。こうして私が大切に、必要としている友人たちがいなく成って行きます。人間や命あるものには、命の終わりがあるのは分かっていますが?まだ早すぎると感じるのは私だけでしょうか?

 

では本題に戻します。

 

今日は二つの点で話を勧めていきたいと思います。第一にクリスチャンには古い性質と新しい性質があると言うことです。ローマ人への手紙7章7―25節にパウロの葛藤しているの分かります。7節「律法は罪なのか?」この問題をパウロが提起し「絶対にそんなことはありません」と律法の与えられた目的について語っています。

 

それは律法によって、私たち罪深い者であることに気づくためです。

ではこんなに良いものがどうして、私たちに死をもたらすのか。それは律法が問題ではなく、問題は罪なのです。罪がこの律法を利用して、如何に私たちがどんなに罪深い人間なのかを仕掛けてくるのです。

 

パウロは7節で「律法は罪なのか」という問題提起をしてから、「絶対にそんなことはありません」と反論していっるように、律法の与えられた目的とは「それは律法によって、自分たちが罪深い者」であることに気づかせるためでした。

 

ではどうして、こんなに良いものが、私たちに死をもたらすのか。

14~15節「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」これまでは過去形で書かれていましたが、今日の箇所では現在形で書かれています。

 

9節に「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。」と過去形ですが、ここでは「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」と現在形で書かれています。「救われる前の状態」の事ではなく、救われてからの事で、このようなみじめな人間の姿というのは、救われる前ではなく、パウロの救われた後の話です。

 

イエス・キリストを信じて新生されたはずのパウロですが、罪深い今の自分の姿に「ああ、私はほんとうにみじめな人間です」と告白せざるを得なかったのです。皆さん。信仰に生きたパウロでさえ、「私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死の、からだから私を救い出してくれるのでしょうか」と告白せざるを得ないほど罪について葛藤していたのです。

 

皆さん、信仰に固く立っているような人は、どんな時でも、どんな状況にあっても決して信仰が揺さぶられる事はない?いいえ。そんなことは決してありません。どんなに信仰があっても、簡単に倒れてしまうときもあるんです。

 

Ⅰ列王記18章あるエリヤもそうでした。

 

エリヤもまた神様に選ばれた預言者です。エリヤはカルメル山でバアルとアシェラの預言者850人と戦って勝利した人です。このときのエリヤの姿は堂々としていて、吠えたける雄獅子のように力と勢いのある勇者でした。

 

しかしその後、アハブの妻イゼベルが登場して「エリヤを殺してやる」と宣言したのです。それを聞いたエリヤは恐れて、命からがら逃げ出して、エニシダの木の陰に崩れるように座り込み「主よ。もう十分です。私の命を取ってください。」と泣きついたのです。

 

ほんの数分前まであんなに威勢の良かったエリヤが、「主よ、もう十分だから命を取ってください」と嘆いています。私もそんな事がありましたが?いったいどちらが本当のエリヤの姿なのでしょうか。「主よ、もう十分です。どうか命を取ってください」と言った、あの姿こそ、本当の彼の姿、私たちの本当の姿なのです。

 

人間は見栄や虚栄で威張り散らし、外見は如何にも強そうに見せていますが、所詮、人間とはチリに等しい、無価値な弱い器として神さまが造られたのです。聖書を読めがどんな信仰の勇士でも、動揺したり失望したり落胆している事を知ります。これが人間の姿なのです。

 

クリスチャンになったからといって、もう信じて何年にもなるから落ち込まないということはありません。私なんかこの連続です。使徒パウロも15節を読むと「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」と告白しています。

 

Ⅱコリント1章8節を見ると、彼は非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受けていたと告白していますが、内容についてはわかりません。

 

パウロほどの信仰者でも耐えられないほどのプレッシャーだったことが分かります。彼は信仰の人だから、たとえ、命の危険の中に置かれていてもキリストの福音を伝えたパウロでさえ、私たちと同じ弱さがあったのです。自分の願う事ではなく、かえって憎む罪を犯してしまっている自分がいるのを・・・

 

18―19節でも同じようなことを言っています。

 

パウロの葛藤は、自分の中には善をしたいという願いがあるにも拘らず、気付いたら悪を行っているという矛盾した自分と弱い自分、これがパウロの正直、率直な告白です。この告白は何を意味しているのかです

 

使徒パウロほどの信仰の人になれば、悩みや問題、葛藤は一切なく、日々確信に満ちて、口さえ開けば「イエス勝利。イエス勝利」と叫び、どんな試練や患難にも絶え、決して揺らぐ事のない信仰に立っている筈が?實際は心の内側は、いつも神様のみこころに従えていないという葛藤と不安と悩みで満ちていたのです。

 

私は予想外な問題、背筋が凍るような体験をした事がありました。

「神様どうしてですか」と神さまの御前で泣きながら、つぶやきながら不平を言いながら泣いて落ち込んだ事があります。頑張っているのに・・何故か?うまく行かないし苦労の連続・・・だから落ち込む・落ち込む・・すると「先生でも落ち込む事があるんですね。」と言われた。姉妹は、私という人間は強いから落ち込む事を知らない人間だと思っていたようです。

 

とんでもないです。

そんな人間は世界中探してもいませんよ。誰でも悩み、苦しみ、嘆き、悲しみと日々、闘っているのですから・・

 

Ⅱ.葛藤の原因(21-23)

どうしてクリスチャンには、こんな闘いが多いのか?21~23節に2つの原因があることが記されています。「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」

 

この二つの律法とは内なる人である心の律法に対して、外なる人である肉の律法の事です。8:2節「いのちの御霊の原理に対する罪と死の原理です。」この罪と死の原理がいのちの御霊の原理に闘いを挑むので、こうした葛藤が生じるのです。ですから、イエス様を信じていない人々が、こうした葛藤や悩みを抱える事は決してありません。

 

イエス様を信じていない人は、罪と死の原理という一つの原理に完全に支配されているからです。外なる人も内なる人も同じ律法に支配されているので、両者の間は仲同類項ですから喧嘩はしないので、当然、葛藤する事もありません。イエス様を信じていない人が「祈らなかった」と言って悩んだりする事はありません。

 

しかし、イエス様を信じ、心に迎え入れた人たちには「いのちの御霊」が与えられているので、信仰が大きいとか小さいとかではなく、「いのちの御霊の原理に罪と死の原理」に闘いを挑むから、葛藤が生じて来るのです。しかし、心配しなくて大丈夫です。こうした葛藤があると言うこと自体、そこにいのちがあるからです。

 

いのちが植え付けられているからこそ、少しでも神の律法に背いたりすると、不安になったり、恐れが生じたりするのです。もし、いのちの原理が私たちの内に働いていないなら、不安などは決して生じません。私たちが不安になるのは、私たちの内にいのちの種が蒔かれているからです。ですから、罪の勢力といのちの勢力の闘いが始まるわけです。そしてこの闘いは、いのちの勢力が圧倒的な勝利を治めるまで続けられます。

 

パウロは、Ⅱテモテ3:12「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」確かに、キリスト・イエスにあって生きようと決心したその瞬間から、この罪と死の勢力との闘いがかいしする訳です。信じているような信じていないような、どっちつかずな不安定な状態で生きていたときには何の闘いもなかったが、主のみこころに従って歩んでいこうと決心した瞬間に、その人の中でこのような戦いが襲って来るのです。

 

その結果、いったい何のために信じたのかさえも見失ってしまうほどの混乱が生じたりするのです。これまで何でもないと思っていた事や当たり前と思っていた常識自体に戸惑ったします。それはその人の中にいのちが芽生えたからなのです。

 

いのちの御霊の原理が、罪と死の原理と闘っているからなのです。

使徒17章に、パウロがテサロニケという町で伝道し、町の人たちがクリスチャンの人たちを「世界中を騒がせて来た者たち」と叫んだのです。いったいクリスチャンが何をしたのか?ただ「唯一の神、救い主イエス・キリスト」の福音を宣べ伝えてただけです。

 

しかし、テサロニケの人たちの目には、このクリスチャンたちの存在が、世界を転覆させるような人たちのように映ったのです。イエス様はマタ10:34~36節で「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」

 

これはどういう意味でしょうか。

私たちが本気で信仰によって生きようとするなら、家庭内の平和は崩れるということです。一方にはこの世の原理で生きようとする人ともう一方の、みことばに従って生きようとする人たち、この2人の人たちがぶつかり合うからです。

 

ですから、イエス様が行かれる所では、悪魔につかれた人たちが声を出して発狂しながら出て行きます。いのちそのものであられるイエス様が来られると、死の勢力はもはや隠れている事が出来ないからです。

 

教会に葛藤が生じるのも同じです。このいのちの御霊の原理に罪と死の原理が闘いを挑むので、平和が崩れてしまうのです。ですから教会は、いつもいのちの御霊の原理に支配されるように、いつも神様の視点で物事をとらえ、神様のみこころにかなった歩みができるように祈らなければなりません。

 

最後に、ではどうしたら罪と死の原理に勝利することかできるのか。

それはただ主イエス・キリストにあって勝利する事が出来るのです。24~25節「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」

 

彼には善を行いという思いがあっても、その善を行う力がないと言う事なのです。そして、からだの中にある罪の律法の虜にされているので、みことばに従いたくても従えないのです。これがパウロが直面した挫折感でした。

 

そしてこれはパウロばかりではなく、すべてのクリスチャンに言える事です。私たちはこの罪に打ち勝つ力などないのです。ほんとうにみじめな人間なのです。それは全く私の中にあるものではなく、神の恵みによるものです。

 

25節でパウロは「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」彼は、それはただ神様の恵みでしかないと言っています。自分がいかに罪深い者であり、自分の中にはこの罪に打ち勝つ力など全くないのに、神さまひとり子であるイエス・キリストの十字架によって、罪の贖いをしてくださったのです。

 

私たちはただ神様の御前に頭を垂れ、悔い改めて、神に立ち返り、神の恵みにより頼むだけです。そうすれば、イエス・キリストにある神の義と力が、この罪と死の呪いから、完全に勝利する道が開かれるのです。

 

パウロはその原理がわかったのです。

こそこそ私たちの救い主、主イエス・キリストにある祝福なのです。信仰のない人に、このような葛藤はありません。信仰のない人には、自分の弱さ、醜さを見る鏡が無いからです。鏡とは神さまの御言葉です。

 

人はまことの神様の「恵みの光、力の光」に照らされて初めて、自分がどれほど罪深い存在なのかがわかるからです。主にあって自分の弱さと足りなさを知った人だけが、この告白をすることができるのです。

 

パウロは自分のことをⅠコリント15:9「使徒の中では最も小さい者」です。Ⅰテモテ1:15「私はその罪人のかしらです」と完全にへりくだっています。まさに「実るほど 頭を垂れる稲穂かな」です。

 

それは霊的な世界でも同じ事なのです。

どんなに偉大なクリスチャンでもみな失望、落胆を繰り返し体験しているのですが、そんな中で何を見つめたのかです。「信仰の創始者である主イエス・キリストから目を離してはダメです。」ここに私たちの希望があるからです。

 

私たちは罪と死の原理に悩み、負けそうになっては落ち込んだりする弱い者ですが、主イエス様はこうした支配を完全に打ち破る力を持っておられる方であることを信じ、これを覚え、ただこの方の恵みによりすがり、信仰によって、勝利ある人生を歩む者でありますように、主の御名により祝福致します。アーメン。