コリントの手紙1:1-31「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」今日は、コリントの教会が分裂の危機、霊的に病んでいた状態に置かれていた問題について調べて行きたいと思います。

 

世の中には数え切れないほどの企業やグループがあります。同じ志をもったひとつの企業、グループであるはずなのですが、実はそうではなく、一つのグループの中にまた別のグループがあるとい企業組織が非常に多いです。

 

日本の代表的な党である自民党を見ても良くわかります。自民党を大きくわけて「中曽根派と福田派・石橋派と三木派や松村派」とまだまだありますが?大きく分けてもこれだけの派があり、そんな中で国のためを思っているのか?毎日のように仲間同士で争っているわけです。国会での審議中継を見たら、居眠りする議員。やじ馬のように意味不明な罵声を浴びせている議員。携帯をいじくる議員?

 

どうも担当があるみたい・・そんな中でゲームをやっているような議員もチラホラと・・これらの議員を私たち無きなしの血税でもって養っていのかと思うと本当に情けない。本当に国と国民のために政治をやってくれるのかと心配と不安が交差する

 

コリント教会もこれと同じような事が起こっていたのです。教会はイエス・キリストによって、信仰と御霊によって一つです。しかし、何故か?信徒同士で争っています。その内容は・・・

 

第一聖書から、神の言葉から、信仰から離脱した飛んでもない問題でした。教会の信徒たち同士の中で分派が出来上がっていて、これが原因で争いがあったのです。昔も今も変わらない人間社会現象です。

 

争いの内容は、パウロが最初にコリントで伝道した時に救われた信徒と、次にアポロがやって来て伝道した時に救われた信徒、ペテロが伝道してバプテスマを受けた信徒など、1:11~12にある通りに「教会が4つのグループ」に分かれていたのです。

 

ある人が「私はパウロにつく。」また別の人は「私はアポロにつく。」また別の人は「ペテロにつく。」また別の人は「私はキリストにつく」等とイエス・キリストと人が同格に取り扱われると言う、絶対にあってはならない最悪な状況の中で争いが絶えなかったのです。

 

イエス・キリストにあって、信仰によって思いを一つにするどころか、彼らは互いに相手を非難し、攻撃し、各々自己主張し合って、自分たちの選んだ指導者たち、つまり神さまの福音を伝えた人たちを、神さまと同じ位置づけで尊敬し、救い主である「イエス・キリスト」と「十字架の福音」がなおざりにされていたのです。

 

そこで使徒パウロは、そのような教会のあり方に厳しく警告しています。

1:18~21「十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものですが、私たち救われるものには神の力です。それはこう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のない者にする。』知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。」

 

世は自分の知恵で神を知ることはでいませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教と言う愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」福音とは単純明快「私たちの罪を赦すためにイエス・キリストが身代わりとなって十字架上で死に、三日目に墓からよみがえられた。」と教えます。それを信じる者が救われるのです。余り簡単過ぎて難しいーーーかな?そんなことで救われるの????事実、神さまの御言葉を信じたら救われます。

 

指導者や難しい学問や苦しい修行等は必要ありません。

 

パウロはこのことを次のように表現しています。1:22-25「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。ぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」

 

ユダヤ人が切望するメシヤは、イスラエル王国を再建する力強いメシアでした。しかしイエス・キリストは名誉も権力も持たず、遊女や罪人の友となり、最後は十字架で弱々しく死なれました。だから人々が「イエス・キリスト」は断じてメシアではないと考えたのです。イスラエルの人々は最強のスパーヒーロを待望していたからです。

 

その事を知っていた使徒パウロはそれでも「しかし私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」福音とは「イエス・キリストの十字架の言葉」を宣言することだとパウロは宣言しているのです。このイエス・キリストの十字架こそが、神の愛そのものなんだと言っているのです。

 

私たちの罪の身代わりとなったイエス・キリストの十字架の死によって、私たちの全ての罪が赦され、ここに神の愛と救いの真理があるからです。罪の赦しとは、人間の知識や学力や努力でなんとか出来るものでは有りません。それを、取るに足らない私たちのために、神さまはキリストの十字架を通して、私たちを罪の滅びから救いだしてくださったのです。

 

ある人は言うでしょう。「私には博士号もあります。またある人は、私には数え切れない感謝状があります」人間がどれだけ知恵や知識や慈善を誇っても、「十字架の言葉、救いの言葉」を手にいれる事は出来ません。むしろ、自分の理性や知識を放棄した者「純粋に神の前にへりくだり、罪を悔い改めて、信じます。」と告白し、主の十字架を見上げる時、神さまが私たちにどんな大切な事をしてくださったかを知り、悟るようになります。

 

1:17「なぜなら、キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架が空しいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。」

 

信仰や福音が、知識や学問にとって代わり、人間崇拝、偶像礼拝が起こさないためにも、パウロはバプテスマを授ける事よりもむしろ、神の福音を宣べ伝える事に専念しました。良く耳にしたことがあります。私は何処どこの有名な牧師から洗礼を受けましたとか・・・ 

 

こういう事にならないために使徒パウロは、福音を伝えるときに、あえてすぐれた知恵を用いて宣べ伝えることをしなかった。と言っています。それは信仰が人間の知恵によってではなく、神の力によって支えられるためだと教えています。

 

もし私が知恵にあふれ、雄弁で、説得力のある人間なら、人前で力強く説教をし、多くの人々を救いに導けるでしょう。しかしそれは私の功績となってしまい、つまり人々は私を神のように崇拝するようになります。それは神様の御心に反することであり、それは神さまの御心に反逆する、違反する事になります。

 

また、福音は神様のメッセージです。それを人間の思いが飾り立てられたり、水増しをして伝えては違反行為となります。神様の福音つまり救済は、人間の知恵を用いて、説き伏せ、説得し、回心させるのではありません。キリストの福音をそのまま伝え、それを信じた者が救われるのです。それが神様のことばを預けられた私たちがなすべき勤めなのです。その時、神様の力が働くのです。

 

教会にとって最も大切なことは、キリストが教会の頭で、一人ひとりが体の部分ですから、御霊の一致と信仰による一致が重要であって、分裂では有りません。この信仰の一致、御霊の一致によって教会は力強く聖霊の働きが活発になり、伝道するパワーーとなるからです。

 

所が、コリントにいたクリスチャンたちは、キリストに付く前にある特定の人物をリーダーにし、何れかのグループに属することを第一としていたのを聞いたパウロは、彼らが依存している教会の指導者たちの存在について説明し、彼らの過ちを正しています。

 

「十字架のことば」これは、イエス・キリストのことばであり、またキリストが十字架につけられて、3日目に神さまの約束の御言葉通りに死人より蘇らえた事についてのことばです。その言葉によって私たちは救われたのです。「確かにこの世の知恵では愚かに聞こえるだろうが、けれども信じる者たちには救いをもたらす神の力」となるとパウロが宣言しているように、この世の知恵によっては、人を罪から救い出す事も問題を解決することも不可能です。

 

しかし、十字架のことばを信じた人は、確かに罪から救われ、その人の人生の全てが新しく変化されます。この事は事実で、私も生きている者の証人のひとりとして宣言出来ます。この世の知恵の言葉は確かに「耳ざわり、聞きざわり」雄弁に聞こえます。正直言って、この世の言葉には真実性と力が有りません。

 

その反対に、神さまの御言葉は愚かに聞こえるようですが、その福音には確かに、真理と力のエネルギーが溢れている事が目に見えて分かります。それは私自身、多くの人々が救われた後に変化されたのを実際にこの目で見て体験しているからです。

 

「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」

 

皆さん。教会に来ている兄弟姉妹を見回してごらんなさい。キリストに従う私たちの中には、知者や権力者や地位の高い人は殆どおられません。かえって、この世では愚かな者、弱い者、貧しい者と思われている人々の方が多いです。それは神さまがあえてそんな人々をお選びになったからです。

 

それは、この世で知恵ある者、立派な人物とされている人々を辱しめるためで、 神様はこの世で見下されている者、取るに足りない者を選び、そういう人々を役立てる事によって、知恵や知識や力を誇っている者たちを無きに等しい者とされるためでした。ですから、どこ国の偉大な人物であっても、神さまの前で誇る事は出来ないのです。

 

私たちは救い主、「イエス・キリスト」によって罪赦され、命を得たからです。イエス・キリストは私たちを聖なる者とし、また、罪の奴隷であった私たちを買い取るために、ご自身を投げ出してくださったのです。それがカルバリの十字架の死です。

 

 エレミヤ9・23-24「だれでも誇ろうとする者は、主のなさったことだけを誇れ」このように、すべてが主イエス・キリストにあって成り立っているのであって、教会はキリストが頭であり、中心なのです。私たち人間が行なっていることが大事なのではなく、キリストが行なわれている事が重要なのです。それは、神さまの御言葉が成就するためです。

 

パウロは、宣教のことばが愚かに聞こえることを認めています。しかし、そのような愚かであるはずの福音のことばによって、多くの人々が信じて救われたています。つまり、この世の知恵は、その愚かであるはずの宣教のことばよりも、もっと愚かで、虚しい言葉であると言う事です。

 

神は、この世の知恵がいかにむなしいものであるかを知らせようとして、あえて、キリストの十字架による救いをお定めになったのです。私たちのような学のない人でもこの真理を悟る事ができるのに、一流有名な大学教授であっても、自分の知性によって神の真理に至る事が出来ないのです。実に憐れです。

 

第二に、22-25節にあるユダヤ人とギリシヤ人が求めたのかを調べて見ましょう。パウロは、彼らにとってキリストの十字架がどのように見えるのかを話しています。しるしを求めたユダヤ人は、自分の目で見えるものによって「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」ユダヤ人たちは、目に見えない神を知ろうとしたのです。

 

モーセによって、紅海が分かれた事やエリヤやエリシャをとおして、数々の奇蹟としるしが行なわれた事等・・ですから、ユダヤ人は、これらのしるしによって、生ける神とメシヤを知ろうとしたのです。その一方、ギリシヤ人は知恵を求めます。コリントの教会はユダヤ人とギリシア人からなる教会で20節に「学者=律法学者」たちで、その律法学者たちはイエス様が地上を歩まれたとき、イエス様を信じ、受け入れなかった人たちだったのです。

 

イエス様を信じたのは、むしろ罪人と呼ばれていた人たちでした。

 

イエス様は聖霊によって喜びに溢れてこのよう語られています。ルカ10:21「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」イエス様が言われた言葉を、今日の聖書でパウロも同じようにのべています。

 

21節「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」世は自分の知恵で神を知ることができない。パウロはこれを神の知恵に適っていると語ります。そして、ここに福音が宣べ伝えられねばならない理由があるのです。神様は御自身をどのようにして表されたのか。それは宣教という愚かな手段によってでありました。

 

神様はキリストを信じる私たちの宣教を用いて更に信じる者を救おうと「お考えになった。喜びとされた」のです。神様はキリストを信じる私たちを用いて救いの御業を進められることを喜びとされおられるのですから、私たちも常にその事を心がけ、一人でも多くの人々を神さまの喜びの招きに導かれますように、日々の生活の中で福音宣教の働きに参加されますように、主イエス・キリストの御名により祝福致します。