私たち人間は「人を傷つけ、傷つけられる」このような無価値で、空しい人生を歩むために造られたのでしょうか?いいえ。神さまは、私達がハッピーな人生、祝福された人生、豊かで安定した人生を歩んで行くための計画を約束されておられます。

 

エレミヤ29:11「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主(神様)の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」だから、神様の祝福と恵みの人生を生きるためには先ず、神さまのとの関係を正常に回復する必要がありあす。すべての人は罪を犯しているのですから、問題を抱えていない人は誰もいないこれが現実です。

 

ここで注意すべきは「重荷は誰が負ってくださるのでしょうか。」という真理です。

 

しかし、人が負わなくても良い様々な重荷を背負って生活をし、一生懸命努力しても、罪がもたらすこの重荷はその人の生きる望みを奪い取って行くので、必ずその人は、背負いきれない重荷で潰されてしまいます。だから、この重荷を身代わりに背負ってくださる方を探さなくてはなりません。しかし、人の重荷を身代わりに背負ってくださるそんな物好きな人が実際、おられるのでしょうか?

 

おられますその方が「主イエス・キリスト」なのです。

 

多くの人の問題は「憎しみや、妬みや、赦せない」と言う呪いを心の中に抱えている人です。そもそも「傷つく」というのはどういう事なのでしょうか。それは人間の罪の性質「肉の行い」だとガラテヤ人への手紙5:20,21「敵意 争い、そねみ、憤り、党派心、分裂・分派、ねたみ」などと書いてあります。

 

またヤコブ4:1に「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか」。そしてその結果、感情を害したり、不愉快になったり、傷ついたり、赦せないという思いを心に抱き、怒りを感じ、憎んだり、うらんだりして、そして人間関係のバランスが崩れて、愛が冷え、人を疑うようになるので対人関係もうまく行かずに距離を置くようになる。こういう現象をまとめて「傷ついた。プライドが傷ついた」と人は言います。

 

しかし、イエスさまは1コリント5:17で「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。なのに、今どうして、私はキリストと共に十字架に付けられて、新しくされたのに、どうしてまだ古いままの自分なの?古い自分が息を吹き替えし愚かな生き方を再び始めようとしているのです。

 

何故、主にあって罪赦され、新しく変えられた自分、豊かな聖霊の油注ぎと神の祝福を受けた事、その事を信仰により、私はそれを受理した確信が何処に飛んだ・・・・のか?私はそこが一番、気になるし、なんでそうなるのか?分かりません!それは、イエス様はなぜ私たちのために十字架の上で、命を捧げてくださったその真理を悟っていないからです。

 

私たちが「傷つく」ことに対して、代わりにイエス様ご自身が「傷つかれた。」私達が犯した罪のために、何をもっても癒やされる事のない深い傷と呪いから、私達を癒やし、そして悪魔の束縛から開放してくださる為に1ペテロ2:24節「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ(罪に死に)、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」と書かれてある通りです。

 

兄弟姉妹この事を信じますか

これこそが私たちクリスチャンの信仰の基本であり、根本なのです。

 

私は「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」と言う御言葉を体験する機会に出会いました。私は長く病に苦しんでいました。「父親とあったら殺してやる。」そんな心を長く抱いていたからです。そんな父親を赦し、父親として受け入れた時に、私も神さまの愛と癒しをいただき病は癒やされ健康になりました。心の底から憎んでいた父親を赦すことによって、私の魂が幸いを得て、悪魔の束縛から開放され、健康充満に変えられたのです。

 

後期高齢者である私は今だ、服用している薬はゼロです。

本当に神さまに感謝しかありません。日ごろ聖書を読み、また告白しているのにも関わらず、未だに自分の昔の心の傷をほじくり出したりしているその人に対して、私は助言をしたい。

 

つまり、キリストの十字架の意味、言い換えれば、キリストを受け入れた自分が、キリストにあってどんな存在なのかを正しく理解していない事に気づくべきだと言う事を・・・「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ」― これらのものから完全に開放されるには「自分に死ぬこと」つまり、「自分の肉を十字架につけてしまう」以外に解決方法はありません。

 

もしそれ以外に罪から解決される方法があったのなら、イエス様は十字架に付けられる必要がなかったでしょう

 

1コリント1:18「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」つまり、十字架のメッセージを本当に自分のものと受け取るときに、そのときこの天地を創造された偉大なる主の力が働き、私たちの肉と罪の性質から来る「全ての傷」から開放されることが出来るのです。

 

神様は、私たちが、神の愛と祝福を十分に理解することを望んでおられます。そして神様の愛の中で、常に私たちが守られていること、安全であることを確信することを願っておられるのです。

 

エペソ人1:18〜23「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストの内に働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」

 

パウロは私たちの心の目が開かれる事を願っています。その理由は、私たちが救われた後であってもなお癒されずに抱えている心の傷は、私たちがクリスチャンとしてキリストにあってどういう存在であるかを、本当の意味で理解していない。そして、私たちがどのような存在かを理解していないならば、私たちの本質に備わっている自由と御霊の実を結ぶことを経験することはできないからです。

 

人生において、古い自分という鎖につながれたまま重荷を死ぬまで背負い続けて生きていくのは、神さまの言葉を否定することになります。主イエス・キリストの復活は、この全知全能なる創造主である御父のご計画とその偉大なる力の働きによるものです。そしてイエス様を死からよみがえらせ、悪魔を打ち破った力が、私たちを日々の生活において豊かに溢れ、悪魔の束縛から開放され、自由とされる権威が私たちにも与えられている事を信じましょう。

 

天の御父である神様が私たちに与えてくださった素晴らしい溢れんばかりの愛に感謝します。神様は、私たちにご自分のひとり子の命さえも惜しまずに与えてくださったその愛を今日も、押さえつけ、ゆすぶり入れ、溢れるほどまでに満たしてくださった神さまに感謝して、この一週間も主イエス・キリストの御名により勝利される事を信じます。祈りましょう。