今日は礼拝と祈祷会が終わり。。直ぐにアメーバーにアップロードをしましたが・・

今日も生きて今も働いておられる神の教会で礼拝を受けられましたか?そうであって欲しいと願っています。

聞く耳をもって聞き、心に信じて悟られられる兄弟姉妹でありますように・・主の再臨は近いから・・・

 

エペソ人への手紙3章20節−21節「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを超えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。信仰と願望多くの人々は、ただ願い求めさえすれば与えられると思っています。しかし、聖書は「願うところ、思うところ」と言っています。すなわち、神さまは私たちの思考生活を通して答えを与えようとしておられるのです、「願うところ、思うところ」のすべてをかなえてくださる事の出来る方、それが神さまです。

 

では今、あなたは何を考え、何を求めて祈っておられますか。

 

あなたはお金の事や病気の事ばかりを考えていませんか?それとも新しいチャレンジに対して不可能と考え、失敗をおそれていませんか。私の良く知っている知人はこれをやってみたらとアドバイスする度にやりもしない内に「出来ない」と否定的な言葉を使います。彼はやる前にすでに失敗を考えているからです。

 

新しい目標を持つために必要なのは「必ず成功する」と言う成功意識が必要です。神さまは私たちの助けてであり、神さまは私たちの祝福であり、神さまは私たちの成功であり、神さまは私たちの勝利なのです。パウロはガラテヤ1:1「使徒となったパウロ私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。

 

Ⅰコリント15:9~10「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害していたからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」

 

ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考え、キリスト者と教会を迫害し殺人の罪ま犯していた人が、ダマスコの途上でイエス様から声をかけられキリスト者となっただけではなく、それも使徒としての神の働きに召される事など、彼が願いもしなかった、思いもしなかったもので、彼にとっては驚愕に値するものでした。

 

福音を知る者となった彼は、十字架の神の愛と恵みを深く知る者となり、エペソ3:20-21「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを超えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。」

 

私は今も牧師ですが、しかし、私は自分から牧師になりたいと思った事も、願った事も、考えた事もない人でした。ただ毎日、世に、人に社会に反抗して母に心配をかけ、泣かせて来た人でした。

 

だから今あるのは神さまの恵みの他ありません。アーメン。

主の聖霊さまの導きにより牧師としての働きをやりながら、今は、「YY卓球club」のリダーでもあります。今回、私とメンバーのために基礎練習強化を取り入れた、技術面のスキールアップを目指す為の計画書を作り、それを7月に導入する事にしました。協力者たちから具体的にどのようにやるつもりですかと聞かれ、将来に対して、夢と希望を膨らませた計画案件、そこには中学生との交流練習も含んでいますが・・・

 

この事を話し、そこに私の思いを付け加え「兎に角、やってみないと分からない点、やって行く内に気づく点、メリット、デメリットも含めて1+1=2ではなく必ず良い成果が出る。必ずプラスの結果が今より出せると信じています。だから実際やらないと成果がどれぐらい出るかはわかりませんが、決して失望に終わる事がないと・・」分かりました。じゃ~やってみましょうと私の考えを支持し、賛同しえくれました。

 

私には自信があります。既に「死と黄泉に打ち勝たれた勝利主、イエス・キリストが私の神さまだからです。」その神さまは何をしても成功に導いてくださるからです。神さまには失敗は絶対にありません。神さまが戦いに敗北する事も断じてありません。神さまは永遠の勝利者です。だから神さまを信じる者たちは、勝利意識を持たず、敗北意識を持つならこれは不信仰になります。

 

 

パウロもこのように語っています。パウロは「神の恵みによって、私は今の私になりました。」これは全てのキリスト者に言える事です。どんな状況や環境の中でも、パウロのように神の栄光がいつもある事を信じて祈るべきだと確信します。だから私は常に高齢者ですから、そんなしんどい事はしたくない、もう休ませて欲しい、力もないからと言う言葉は口にしません。神さまの子どもだからです。気が付くと不思議と新しい事をやっている自分を発見しては感謝しています。

 

だから私もこう宣言します。「神の恵みによって、私は今の私になりました。」

 

神さまは常に信じる者たちに新しいものに対するチャレンジ精神を与えて下さっているからです。今、チェコ政府のウクライナ復興問題特使は、復興が本格的に始まった時に、受注レースの先頭にいられるのは、恐れずに今、ウクライナに向かう諸国にならなければと世界中にアピールし、そのために2025年までにウクライナで事業を展開しようとする企業を支え、地域の貿易ミッション経由でウクライナ政府と契約を結ぶのを手助けするため、毎年5億コルナ(2350万ドル)を拠出すると約束し「各企業や政府は、ウクライナの市場が将来的に大きな商機になると認識している」

 

チェコ企業がウクライナで得る収入は向こう何年間かで数倍に膨れ上がると予想。「ウクライナ復興の少なくとも第1段階は、既に進行している」と言い切っています。未だ戦争の終着を見ないウクライナに対して将来復興事業により多くの利益をウクライナ事業に置いて得ると・・ウクライナにおける事業内容や計画に関し、復興にかかる総費用は4110億ドル、ウクライナの昨年の国内総生産(GDP)見込み額の2.6倍に上り、「戦争が終わった段階で、ウクライナに資金が流入し、とても大きな建設市場が生まれる。多分、欧州最大規模になるだろう」

 

ポーランドでは投資貿易庁が用意したプログラムの一環として、2300社を超える国内企業が、ウクライナの復興事業に参加しようとしている。ほとんどは建設や建設資材関連の企業だ。「各村を回れば、どこでも需要がある」という。何処を見て焼野原ですから、実際、ウクライナで活動している外国企業は日々の空襲に対応しなければならず、一部では軍事コンサルタントを雇い「われわれは従業員のスマートフォンに空襲警報アプリをインストールしている」と明かにし、チェコとポーランドの企業にとって、両国政府がウクライナに軍事・政治的な支援を続けていることが、ウクライナで事業を行う上で<有利な条件>メリットになる。

 

<課題はウクライナの透明性>ただ、ウクライナの行政組織がどの程度、透明性を示す能力があるのか次第になるとの見方を示し、腐敗認識度指数によると、ウクライナの透明度は世界で116位と、近隣の欧州連合(EU)加盟国よりもはるかに低いとありました。「経済上の手続きにおける透明性や公正な入札制度、透明な歳出とこれらの資金の決済がなければ、誰もウクライナに投資しない。ウクライナにとってはこれが一番の課題だ」と指摘しながら、新しいチャレンジを始めています

信仰も同じことが言えます。

神さまに対する信仰が不透明な人には、主の力は働かず、神さまの溢れるばかりの恵みと祝福にあずかることは不可能です。

 

パウロの人生を考えてみましょう。パウロほど大きな人生の転換点を迎えた人はいないと思います。彼はキリスト者を迫害し、教会を滅ぼそうとした人です。そんな彼が復活の主に出会うのです。使徒:1~19節に書かれています。3節に、ダマスコの近くまで来た時、彼は、天からの光に打たれて地に倒れ、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」とのイエス様の声を聞き5節「主よ。あなたはどなたですか。と言うとお答えがあった。わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」

 

復活のイエスに出会い、自分が知らずに犯していた罪を悔い改めると言う出来事により、パウロが主イエス・キリストを救い主として信じ、受け入れた事により、彼の人生は見事に180度変えられたのです。このサウロは後にパウロと名を変え、聖霊の導きによりバルナバの指導のもとで、最も偉大な伝道者と変えられて行くのです。

 

復活されたイエスにお会いし、彼は新しく造り変えられた。

これが彼の透明度のある、純粋な新しい信仰の原点となったのです。逆に、注意されても、自分のやり方や考え方と方法でやろうとするなら、それは悪魔の罠にかかりると言う罪になります。その人の人生は罪の支払う報酬の道。死の道、滅びの道のみです。

 

もし、イエス・キリストが復活されなかったなら、パウロの回心はなかったでしょう。パウロ自身もⅠコリント15章14節で、「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」と告白しています。

 

またイエスの語られた言葉、特にヨハネ14:2、3節には、「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。・・・あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたなら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。私のいる所に、あなた方をおらせるためです。」もし復活がなかったのなら、天国に私たちを迎えてくださる、このようなイエスの言葉は意味のない言葉になってしまいます。私はキリストが復活された事を信じています。

 

キリストの復活は真実である。私たちもいつか、キリストの復活の命に預かる。私たちは朽ちない体に変えられて、神と永遠を共にする。それが私たちの信仰です。今まで死を恐れていた人達が、キリストを信じ、永遠を愛に満ちたイエスと共にする、そのような希望を持つ者となって行くのです。教会を迫害したパウロは、自らを「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。」と語ります。

 

続いて、「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。」と振り返ります。神の恵みによって今の私があり、私の働きがある。何一つ私には誇るものはありません。それが彼の人生感です。私たちも、そのパウロの思いを共にする者でありたいです。命が与えられていること、今の人生が支えられていること、また、永遠を神と共にする希望が与えられていること、すべて神の恵みであると思うのです。 

 

復活されたイエスにお会いするまで、神の恵みを覚えた生活を目指して行かれる兄弟姉妹でありますように