今日も礼拝を守られましたか?

礼拝をする者たちは霊と真をもって、神さまを礼拝すべきです。

 

2021/01/25中国船200隻が台湾の離島集結、海底の砂吸い上げる?衛星写真で見たら砂浜みるみる消失。中国は、沖縄県・尖閣諸島周辺や南シナ海など敏感な海域に民間船を送り込んで関係国を圧迫しており、中台統一を拒む台湾への圧力強化の一環とみられる。1979年の米台断交後、台湾総統が米国で米下院議長と会談するのは初めて。中国が台湾への圧力を強める中、蔡総統は、「われわれの平和と民主主義は今、これまでにない試練に直面している。アメリカ議会からの揺るぎない支援は、台湾が孤立していないと我々を安心させるものだ」と応じ連携を強化していく事で一致。

 

これに対しての中国の対抗処置は今月8日、中国軍の戦闘機延べ計42機、中国軍の艦艇8隻など含めて、台湾海峡周辺の防空識別圏に進入し、事実上の中台境界中間線を越えて軍事演習を台湾「包囲」のリハーサルだと報じた。こんなバカげた事は今時、やくざもやらない愚な行為です。世界のトップが今、こんな愚かな事をやっている場合か?

 

10歳の子どもが売春、麻薬、窃盗等、80歳、90歳の高齢者が窃盗や万引きをした高齢者で刑務所のは飽和の状態?何を見て倫理や道徳からほど遠い。大の大人があっちむいても、こっち向いても言い逃れの嘘と偽り、略奪や殺し合いに忙しく・・子どもたちは何をみて正しい事を学べるのか?

 

一握りの権力者たちこの世界を破壊する事に忙しい。核をもてばその国は安泰なのか?核を所有している国の民はみな、飢えと貧しさ、厳しい寒さで多くの民が餓死しているのに

 

詩編53:1節「愚か者は心の中で神がいないと言っている。」この聖句が、無神論者たちが頭の悪いつまり、知性に欠けている事を示し「不道徳な人たちは神を信じない」と言う意味です。2。腐敗53: 1-3 「愚か者は心の中で「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行なっている。善を行なう者はいない。神は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。彼らはみな、そむき去り、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。」

 

無神論者には非常に聡明な人が多い。それは自分の知恵を誇り神になっているからです。

 

人間が腐敗している理由は「神がいない」と言い張っている所にあります。創世記1:27「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」このように神さまは、人を神に似るように創造され、人間をさるに似るように創造されたのではありません。

 

双子のぎんさん2000(平成12)年1月23日、107歳で亡くなられ、ぎんさんは2001(平成13)年2月28日、108歳で長寿を全うされましたが、この二人に聞きたかったことがあります。真面目です。「きんさん、ギンさん。あなた方二人は100年以上この世界に住んでおられたのですが?こんな話を聞いた事がありますか。“サルが人間になった話”」そしたらこの二人はどのように答えられるでしょうか。「あんたはんは学があるのにばかやな?何でサルが人間になるんや。サルが人間になるんやったら、何でさるを動物園のおりの中に入れてるんや!だれがそんな馬鹿な作り話をあんたに教えたんや、その人は大嘘つきやな~。わてらも長い間生きていたがさるが人間になった事など聞いたことがないわ!」と笑われてしまうでしょう。

 

箴言1:7 「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」セア6:3「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」

神がすべて造られたものに対して素晴らしい計画を持っておられ、私たちを神さまに似せて、ご自分の目的にしたがって造られた事を私たちは知るべきです。つまり、私たちに目的を与えられた神を知って、はじめて、私たちは神さまの御心にかなった生き方ができるのです。先ず、主を知ることからすべてが始まるのです。

 

箴言1:7「主を恐れることは知識の初めである。」私たちがイメージする教育とは、英語、数学、国語、理科、社会・・・といった教科を学ぶ事ですが、これらは教育ではなく教科学習です。もちろん教科学習も重要なものですが、教科学習は多くの知識を身につける事が出来ても、主の似姿へと人格が成長する事は出来ません。

 

私たちの人格がキリストの似姿へと成長する為には神さまの御言葉による教育が必要なのです。人はパンだけで生きるのではなく人生の知恵、知識は、神を知ることから来ると言っています。私たちがこの世において、どんなに多くのことを学んだとしても、神を知ることがなければ、そうした知識は、その人の人生を導くものとはならないと、聖書は言っているのです。

 

ダニエル11:32「自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行なう。」神を知る人は、不確かな世の中でも、確かなものを持つことができる、多くの人が間違った方向に向かっていても、正しい方向に向かい、なすべきことを成し遂げることができると言う意味です。神を知る人、そして、神によって自分の人生の目的を知る人が、どんなに確かな歩みをしてきたかは、聖書にも、歴史にも数多くの例を見ることが出来ます。

 

ダニエル書1章にあります。ダニエルと三人の友人が、王から与えれた食べ物を拒否したというストーリーです。

紀元前586年、バビロン帝国はユダ王国を滅ぼし、それに先立って、バビロンは、ユダの国の王族や貴族たちを徐々にバビロンに移住させました。それは、ユダの国がバビロンに背かないようにするためと、優秀な人材を、バビロン帝国のために集め、この時、ダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤの四人は、ユダの国からバビロンに連れてこられました。

 

そして、ダニエルにはバビロンの偶像から、「ベルテシャツァル、ハナヌヤにはシャデラク、ミシャエルにはメシャク、アザルヤにはアベデ・ネゴ」という名がつけられたのです。ダニエルやミシャエルの「エル」は「神」、ヤナヌヤやアザルヤの「ヤ」は「ヤーウェ」(主)を表わします。それぞれに神に対する信仰、主に対する信頼を表わす名前だったのに、バビロンでつけられた名前にはバビロンの神々の名前が含まれていました。

 

かって、日本が台湾や朝鮮半島を支配した時、先祖からの名前を捨てさせ、強制的に日本式の名前をつけさせ、それによって日本の支配下に入ったことを意識させるためです。

 

そのように四人の若者も強制的にバビロン式の名前に変えさせ、政治、文化、宗教において、バビロンの捕囚の民として常に認識をさせるためのものでした。彼らは確かに、ユダヤから捕われて捕囚の民だったので、外見はバビロンの王に従順しましたが、今まで信じてきた神への信仰を決して捨てたのではありません。それは自分たちの神を知っていたからです。

 

四人の若者たちは、バビロン王の食卓から来る食べ物、それは一旦、偶像に備えられた食物、彼らユダヤ人には食べてはならない食べ物を食べて身を汚す事がないように心に決め、王からの食物を断り、ただ野菜だけを食べる事を世話役に願いでます。皆さん。

ユダヤ人でない私たちから見れば、たかが食べ物の事ですから、細かい事にこだわらず、何事も臨機横柄に考えれば良いのに思う人もいるでしょう。

しかし、彼らが食べ物にこだわったのは、それだけの理由がありました。

 

神が、ユダヤの人々に与えた律法と戒めの規則は、彼らに神の民であることを自覚させるためのものです。人は、必ず、一日に何度か食事をします。神は、食べ物の規則を与える事によって、食事のたびに神の民としての自覚を持つようにされたからです。食欲の旺盛な若者たちにとって、バビロン王の食卓から来る豪華な食べ物を断ることは、大変な事だったと思います。

 

しかし、彼らは食べ物が空腹を満たすためだけのものとは考えず、神が与えた規則を守り、神に服従する信仰の行為としたのです。自分たちの食欲を満たすことよりも、神の要求を満たすことを喜びとしたのです。

 

神を知らない多くの人は、自分の欲求を満たすことが人生の目的であると考え、自分の欲求が満たされることを喜びとし、それを追求しています。しかし、神を知る者は、神の要求を満たすことを求め、そこに喜びを見いだすのです。皆さんの多くは、そのような喜びを味わっておられると思いますが、そのような喜びこそ、私たちの人生を、満ち足りた豊かなものとするのです

 

四人の若者たちは、野菜しか食べなかったので、世話役は、彼らが他の若者よりやせてはいないか、顔色が悪くはないかと心配したのですが、「彼らの顔色は、王の食べるごちそうを食べているどの少年よりも良く、からだも肥えていた」(ダニエル1:15)のです。神は、四人の若者たちを約束通り守られたのです。神は、神への信仰を守り通す者を守ってくださるのです。

 

古代では、王や皇帝そのものが神であり、今も共産国では支配者を礼拝の対象として拝むように強要され、肖像画に指をさして射殺される北朝鮮のニュースも見ても分かります。ユダヤ人にとって偶像を礼拝する事は出来ない事ですから「ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤ」は、そのを拝む事を拒否しました。何処の国でも王に媚をうるために密告する者がいます。

 

王は「ひれ伏して拝まない者はだれでも、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。」というおふれを出していたので、この三人が像にひれ伏さないのを見て家臣の一人が王に訴え、三人は王の前に引き出されます。王は三人に3:13-15「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。あなたがたは私の神々に仕えず、また私が立てた金の像を拝みもしないというが、ほんとうか。もしあなたがたが、…ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」

 

ネブカデネザルは、自分を絶対者とみなしていましたから、「どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」と、高慢なことばを口にしたのですが、三人は、「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。」と答えています。

 

ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤの三人は、ネブカデネザルのおふれに逆らったばかりか、ネブカデネザルの絶対性を真っ向から否定し、それが死に価する事を知っていたのです。しかし彼らは恐れずに王に立ち向かったのです。

 

このような勇気はどこから来たのでしょうか。

それは、神を知る事から来たのです。箴言9:10「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」主を知ることによって、私たちは、どんな哲学者や思想家、また科学者たちも得ることのできなかった、この世界の意味、私の人生の目的を悟り、それをしっかりと持つことができるのです。祈りましょう。