今日も主の礼拝が守れましたか?そして教会全体が一つとなって祈られましたか?

 

私は兄弟姉妹に強く訴えます。それは祈りの生活です。信仰生活の「原動力」は「祈り、執り成しの祈りの歩み」だからです。パウロもそのように教えています。クリスチャンが祈らなかったらクリスチャンとは言えません。神さまとの日々の交わり、祈りをを通して私たちは生きて行く事が出来るからです。

 

マタイ26:41にイエス様がいよいよ受難の日を迎えられる日が迫り、ゲッセマネの園で悲しみもだえ苦しみ祈られた後、弟子たちの所にもどって来られたら、3人の弟子たちはぐっすりと熟睡していたのです。それをご覧になったイエスさまは「心は燃えても、肉体は弱い」この言葉は私の胸にも深く突き去って来ます。

 

私も毎日教会で早朝で神さまに祈りを奉げていますが?祈りに上がる時は正直、心は燃えています。私はYY卓球clubを立ち上げて今はメンバーが60人ほどいます。卓球は学生の時にやっていたので、ゴルフから卓球に変え、毎日のように卓球をしています。卓球を続けている目的は、第一、健康な状態で神さまのご奉仕がしたいからです。「年だから・・ちょっと・・まってください・・動きが鈍く、何をするにも時間がかかる・・それは嫌です。私はサラの娘ですから90歳で信仰の子どもを産みます。」

 

つまり、主の御用が何時でもさっと出来るように卓球で体力UPしているのです。私の性格はは何でも熱心が度を過ぎるので、疲れが・・・だから時々、早朝で祈る時、祈り半ばで眠気が来て、そのまま睡魔に襲われ・・・急に体ががくんと・・・驚いて目が覚めて「神さま眠ってしまいました。神さまごめんなさい。私が度を過ぎたからです。この不信仰な私をお赦しください~あわてて祈り直します。」

 

それから今度は、イエスさまのお名前で睡魔を追い出したので、目が覚め真剣に祈り直します。

 

しかし今は違います。”コロナウイルスやロシヤがウクライナを侵略したその日から” 悪魔が世界を支配する勢いを見て、本当に心の底から真剣に神さまに祈り、また世界のクリスチャンたちに祈りの応援を叫び続けています。

 

祈りとはただ言葉数多い?また人に聞かせよいとかっこつけた言葉を並べ立てる・・・それは祈りではなく独り言です。

祈りとは、天の父なる神さま、十字架で死なれ、3日目に死人の内より復活されたイエス・キリストの名によって、父なる神さまの御心を行う事が出来ますようにと祈るのが祈りなのです。ああしてください・・こうしてください・・くれ・くれ・くれたこら・・これは祈りではありません。私たちに必要なものはすでにあたえられているからです。

 

神さまの御心を行う事ができるようにと求めて祈る時、神さまは私の祈りにパワーをあたえてくださるので、不信仰の山が動くようになります。

 

パウロは勿論、神さまに愛され、御霊よって導かれ、信仰によって歩んできた人です。それと同時に、信仰の篤い人たちの多くの執り成しの祈りによって支えられ、勇気を与えられ、強められた人です。執り成しの祈りなくして、キリスト者の歩みをしていける人はひとりもいません。

 

世の中には本当に不条理な出来事が相手構わず、容赦なく襲って来ます。そんな時、パウロは特に「祈りなさい」と教えています。パウロは祈りに関して三つの事を教えています。第一に「祈りなさい」第二に「祈ってあげなさい」第三に「祈ってもらいなさい」です。

 

第一の「祈りなさい」というのは、自分のために祈る事ですが、自分の願いや願望のみを祈ると言う事ではなく、「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい」祈りの生活になる事です。

 

第二は「祈ってあげなさい」これは「執り成し」のことで、他の人のために、気が付かないその人のために代わって祈る事です。クリスチャンになった頃は、自分の事しか祈れなかったが、時間が経つと自分の家族の事や教会の兄弟姉妹や隣人のために祈れるようになり更に、日本や世界のためにとどんどん祈りの輪が大きく広がって行っている事に気づくはずです。

 

第三に「祈ってもらいなさい」

パウロは「私のために祈ってください」と同労者、教会の兄姉にお願いしました。私も兄弟姉妹に祈りの応援をお願いしています。当然、私も兄弟姉妹の為に祈っています。パウロ自身はいつも熱心に祈る人でした。パウロの願いは自分に関する課題がうまくいくようにということではなく、もっと宣教と主の働きのために働けるようにということでした。

 

パウロは獄中でエペソ6:10-20「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」栄光子羊教会の暗唱聖句です。

 

このうようにパウロは神さまのご奉仕を獄中に置いても、鎖につながれていても果たせるようにと祈りの応援を求めているのです。これこそ祈りです。

 

イエスさまが「目を覚ましていなさい」十字架に架かられる直前のゲッセマネの園で仰せられました。「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」イエスは弟子たちが罪の誘いにより、ご自身から離れて行く事をご存知でした。誘惑とは、どんなに心が燃え、決意が強くても、肉体は弱い事を知っておられたのです。だから主イエスは「目を覚まして祈っていなさい」神に絶えず目をイエス・キリストの十字架から目を離さずに生きて行く事を教えられたのです。

 

その目を覚まして祈っていくことにおいて大切なことは「感謝」する事です。

しかし、それとは反対に、いつも人や世を見て躓く人が何と多い事でしょうか。すごく悲しくて、腹が立ちます。それは信仰歴だけ長い人・・・だからいつまでもスタートラインのままで一歩も前進できない人です。本当にイエスさまと共に歩いている。

 

本当にイエスさまと共に歩いていたら「たとえ躓いても直ぐに立ち上がる事が出来る・・・筈・・」ブドウの木につながっていないから枯れ木になってしまうのだよ!イエスさまの十字架の愛を信じていたら・・先ず、神さまが私たちを愛して下さった事を信じるなら「なぜ疑う。なぜ恐れる。なぜ恐れ、退くの?」このように言うと「先生と違う」と言われるのです・・・

 

誰であっても、心が常に神に向けられているならどんな環境の中でも「心はいつも平安。感謝と賛美が充満・・・」だから私は何でもかんでも神さまに祈ります。それはテサロニケ5:16「いつも祈れ、絶えず祈れ、すべてのことを感謝しなさい・・・」とあるからです。イエス・キリストの十字架に目を向けて歩むなら、祈りは神の御心に添って生きるため、悪魔に打ち勝ち最高の武器、力となります。

 

それは、祈りそのものに力があるのではなく、3日目に死人のより蘇られた主イエス・キリストご自身に力があるからです。パウロは「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」と言っています。自分の事だけではなく、すべての聖徒のために祈る事です。私も毎日栄光子羊教会を去った人々のためにも祈りを欠かしたことがありません。

 

パウロは祈る時には、御霊によって祈りなさいと言っています。自分のためにもお互いのためにも祈ることはとても大切ですが、御霊の助けによって絶えず目を覚まして祈ることが重要なのです。

 

そして、パウロは自分のためにも祈って欲しいと言っています。

「鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」とみんなに祈りの応援を訴えていますが、私たちも同じようにお互い祈りによって支え合うということが重要です。

 

教会では特に祈りが重要です。

聖書が証しし、イエス様が示された神様は強く、優しく、厳しさといたわりをもって私達と共に歩んで下さる方です。私達の祈りに神様は必ず応えて下さる。私達への呼びかけを、神様は必ず受け止めて下さる。

 

そのように信じて私達が心にある思いや願い、悩みや不安、愚痴さえも、どんな事でも遠慮なく訴え、吐き出すしながら祈れる事は恵みの他ありません。何と幸いな事でしょうか。嬉しい時、悲しい時、苦しい時、辛い時、喜ぶ時、悔しい時、迷う時、私達はいつもイエス様の祈りに守られ、天にアバ父に祈ることができるのです。祈りましょう。