世界コロナ感染者が61,645,535人 一週間で約7百万人の感染者となっています。死者:150万人と驚きの数値です。今や悪魔がもたらした、コロナ菌が人間界を制覇しているようにも見えます。日本でも新たに2653人が確認され過去最多となりました。コロナは空気感染なので目に見えない敵だけに、防ぎようがなく本当に大変です。

 

私は卓球で痛めた足のリハビリに整形に行っていますが、22日の土曜日に整形病院でこんな事がありました。マスク着用のおばあちゃんが受付の方に話しかける時にマスクを外されて、受付の窓口に顔をいれて話しかけられると「マスクをつけてください。」と大きな声でマスク着用を命じておられました。今まで整形のリハビリに来られるお年寄りによって、整形は成り立っていたと言っても過言ではないでしょう。高齢者は一割で治療を受ける事が出来るので、リハビリを口実に色々な人と会話ができるのと自分の話も聞いて貰えるのでリハビリに行くのは憩いの場に行くようなものでした。

 

しかし、最近はコロナの影響で三密を恐れているお年寄りも多く、リハビリに来られる高齢者の方の数も減っています。今日、久しぶりにリハビリで御馴染みさんに出会ったのでしょうか?久しぶりと言って話しかけるためにそばに行こうとされた高齢者の方に「話したくないので、近づかないで・・」大きな声で断っておられた場面に遭遇しました。これもコロナ以前にはなかった状況です。本当にコロナで私たちの日常生活までも「精神的にも肉体的にも神経的にもぴりぴりと病み」ちょっとした事でも直ぐに感情的になって争いに発展するか分からない危険な状態ですから、私たちも気を引き締めてしっかりと祈って行きましょう。

 

マタイ13章には天の国のたとえが集められていて「毒麦」のたとえはマタイ福音書だけが伝えています。天の御国の事が譬えで語られるのは、天の御国自体が隠されているからです。34節「イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためです。マタイ13:35『わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう』「天地創造の時から隠されていたこと」この事は天国の事で、神様のご支配される御国の事です。ここでの譬えには、弟子と群衆との区別があるのが分かります。たとえ話が(24-30節)とたとえの説明部分が(36-43) 節に書いてあります。

 

24節でイエスさまが群衆に「天の国は、こういう人に譬えることが出来ます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いて行った。麦が芽生え、やがて実が実った時、毒麦も現われた。「神の造られた世界になぜ悪(毒麦)があるのか」その事で人々がイエスに質問しています27-28『だんな様、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ。敵とはサタン』を指します。神の造られた創造の世界の中に悪を働くサタンが入り込んでいる事を語っています。人々はイエスに「では、行って、毒麦を抜きましょう。」

それに対して主人は13:29-30『いや、毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、わたしは刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦の方は集めてわたしの倉に納めなさい。」と言いましょう。』

 

その話を弟子たちも一緒に聞いていたのですが理解できずに36節『畑の毒麦のたとえを説明してください』弟子たちはイエスに譬えの説明を求めています。37-40節「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国(みくに)の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ」終末の裁きのありさまが語られえいます。

 

このたとえ話は、最終的に神が毒麦(罪人)を裁かれる事を教えていますが、このたとえ話の本来のメッセージはむしろ30節「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」つまり「世の終わりに裁きはある」しかし「今は裁かない」という事がポイントです。イエスが福音の種を播かれて教会が誕生しましたが、現実の教会の中にはいつの間にか「良い麦に毒麦」が混ざっていたのです。私も畑に色々な野菜の種をまいていますが、ほうれん草の種を蒔いたら必ず菊菜ではなくほうれん草が出てきます。しかしほうれん草の種の中には、白菜や大根の種が混じっている場合もあります。

 

このように「初代教会も現在の教会の中にも、密かに異端や背教者と言う悪(毒麦)」が存在したので、「その悪を抜こう」という声が教会で広がっていたのです。主人は良い種を蒔いのに後に敵が密かに加わり「良い麦に毒麦」が混じって生えてきたのを知ります。しかし『両方とも育つままにしておきなさい』と言っておられます。イエスさまはなぜ毒麦を抜かないのか、その理由は「本当に毒麦か良い麦か、今は分からない」だから、最終的な裁きの時にはそれが明らかになるから、それまで抜かなくても良い。「人間の目から毒麦のように見えても、神の見方では違う」と言う考えがあったからです。

 

しかし今日の「毒麦」の譬えが「罪人のレッテルを貼られていた人」の意味であるならば「毒麦が良い麦に変わる可能性は大」と言えます。「神には不可能がないからです。」ここに、神さまの「無限な赦し」どんな人も切り捨てられる事のない、イエス・キリストご自身の愛を感じます。確かに、私たちの周りには多くの悪が存在します。「悪(=毒麦)は排除すればよい。犯罪は厳しく取り締まり、悪人を社会から抹殺すれば良い社会になる。」という考えが支流です。

 

私の息子が中学生の時の事です。私は中学校の副会長をしていました。息子が通学していた中学校は、当時すごく荒れていて授業が始まっても、先生が落ち着いて生徒たちに勉強を教えられる状態ではなかったのです。そんな中、授業参観の後、父兄たちとの話し合いの中で、このままでは、子どもの高校の入試にも悪影響をあたえるので「問題児だけを別クラスに入れると言うはいかがですか。問題児は、勉強したい子の邪魔をさせないようにすべきだ。」こんな意見が多数ありました。

 

当時の中学校の校長がクリスチャンだったために、私は、問題児たちの悩みの相談室を開かせてもらっていました。だから、問題児とされていた彼らとは何回か、悩みの相談を受けた事があります。一人ひとりの悩みをノートに記し、保護者に会いに行った事も数回ありました。先生から彼らの情報が欲しいと言われたのですが、それは私と彼らとの秘密で、他の人には明かさないと約束していたのでお断りました。

保護者たちは彼らだけが問題児で、自分の子どもは問題児としてマークされていないから、問題ではないと勘違いしていたところがあったので、生徒たちまでも問題を起こしていたことを、彼らから聞いていていたし、時々教室を見て回ったりしていたので、保護者会で「来月の参観日は、朝の授業から自由に参観日にしたいと思いますと提案したのです。」

 

目的は「問題児としてレッテルを張られている生徒だけが問題だ。自分の子どもは関係ない。」と思っている親に知って貰うためです。子供たちには自由参観の事は知らせていません。抜き打ち自由参観です。一時間目から自由参観間がスタートしました。子どもたちには内緒です。当然、副会長の私が提案したのですから私は一時間目から数人で参加しました。一組目、二組目と進むに連れて数人いた父兄が帰られました。子どもたちの授業態度を見て恐ろしくなったのでしょうか。

 

私、ひとりが残ったのです。そんな私も自制することが制御不能になりかけているので、二クラスの参観で止めたらよかったのですが、3組目の教室に入り、自爆してしまったのです。その教室では国語の勉強で担任は女の先生でした。先生は黒板に問題を書いておられるのですが、わいわいと騒いでいる子、鏡を見て化粧する女の子やパンを食っている子がいたのです。そんな中、先生がひとり黙々と黒板に字を書いておられたのです。良く見ると騒いでいた子どもたちは問題児ではなく、問題がない生徒たちだったのです。そんな教室で机に足を上げて大声で歌を歌っている生徒がいました。

 

私は彼の所に行き、彼のほっぺたを殴ったのです。そして「先生が授業をしているのに、この態度はなんや!」これが問題となり「副会長として教育者として暴力を振るうとは何事だ」と役員会と父兄から私が訴えられて、全校生徒の父兄が公民館で集まるから説明と謝罪を要求されたのです。私はその時に、あったことを話しをして、問題児だけが問題を起こしていのではなく、問題児でないあなたの子も問題を起こしていることを知って欲しいと伝えたのです。これが今回の「自由参観」の目的だったからです。「私もここまで荒れているとは思わず、我慢できずに生徒を手にかけた事は私が悪かったですと謝罪をすると」

 

私が叩いた生徒のお母さんが立ち上がって「他人の子を我が子のように叩いて叱ってくれてありがとう御座いました。」感謝されたのです。「私の息子が悪かったのですから、副会長の勇気ある行動に感謝しています。ありがとう御座いました。」と全父兄の前で私を弁護しえくださり、校長先生「荒れた学校を健全な学校」にした新聞の切り抜きなどの資料をもってきて、父兄の前で私の弁護をしてくださいました。最後は子どもたちが安心して、学校生活をおくるために、教師も父兄も一団となって協力し、家庭においても出来るだけ、家族と子どもちと会話を持つことなどを話し合ってその件は平和的に解決することが出来ました。

 

教会の中でも「罪人を全て排除すれば聖なる教会となる。」という考えに立つ人も少なくありません。教会は特にそうであってならないこの「毒麦」o1034183814858916154.jpg@@1034@1838のたとえは、私たちにそのように教えていると解釈しています。34節以下に「たとえを用いて群衆に語られました。」そして群衆と別れた後に、弟子たちは「畑の毒麦のたとえを説明してください」弟子たちは主イエスの譬えの説明を受けて、少しずつ理解を深めて行き、やがて弟子たちは主イエスの招きにより、従う者となり、主イエスと共に歩み、御言葉を聞くだけではなく、やがてその御言葉を伝える伝道者と変えられて行きます。

 

現実に教会の中でも「あの人は問題あり、あの人は悪い麦だわ!」と批判し合うような事を教会でも平気でやっていますが「ことの良し、悪し」を誰が判断するのか、判断を下しているその人は果たして「良い麦」なのかと言う疑問が残ります。畑の雑草を抜くときに、野菜も一緒に抜いてしまった経験が何度もあります。だから私たちが毒麦と良い麦を間違って引き抜いてしまわないように「毒麦を抜くのは神に委ねるべきです。」教会はどのような人をも差別をしないで受入れて、礼拝する所だからです。

 

12弟子の中にも良い魚と悪い魚がいましたが、良い麦も悪い麦も、良い魚も悪い魚にも夫々には役割があって、共に初代教会を形成し発展させて行ったと言う事実です。最後に、裁きは主に委ねる事です。教会の中に何故悪、毒麦があるのか、私たちには分かりません。しかし「全ての信徒が毒麦にも良い麦にもなりうる。ある意味では、私たち各自のうちに毒麦と良い麦が共存している。だから、他人を毒麦であるか否かを裁くよりも、むしろ自分が毒麦にならないように、自分の中にある良い麦を育てて行く事を心掛けるべきです。

 

つまりそのような人がいたとしても、その責任を私たち教会の仲間が共に引き受け、毒麦にならないように、弱い信徒を助け、忍耐を持って、協力を惜しまず助け合って、神の愛と信仰に生きる者となられますように主の御名により祝福致します。