結局子供の頃からオツムの中はちっとも変わってない。

「さんごーなな」とか、「よんじゅうよん」と言う符号を聞くとつい今も反応してしまう。

恐らくそれはこの人のせいだ。

身体だけは大人になっても結局はお世話になった人から頂いた玩具の「よんじゅうよん」とかを今でも大切にしている幼稚な人間になってしまった。

これをくれた人はきっともう私の事等覚えてはいないだろうとしても。

ヘビーデューティー44マグナム。

そう。

一度男としてこの世に生まれて来たからには、最後までヘビーデューティーな生き方をしないといけないのだ。

マグナムとは力の象徴で有り、タフネスさの称号だ。


たった一人でも巨悪に立ち向かう事が出来るヘビーデューティーな男にはマグナムが必須アイテムなのだ。

例えそれが陰鬱で屈折した正義感だとしても、その化け物じみた強大なパワーの前ではつまらない御仕着せの倫理観や見せ掛けだけの正義等は一発で吹き飛ぶ。

外見がカッコ良くないとマグナムは似合わない訳では無い。

マグナムが似合う様な男になる生き方をして行けば良いだけだ。

追われて生きて行く日々の中で男らしさを失いかけた時に玩具のマグナムを手に取ると、不思議にガッツが湧いて来る。

それは昭和の世代の男達の身体に刷り込まれた本能みたいな物だろう。

元来男なんてゴツくて厳つくてむさ苦しい生き物なのだ。

口紅を引いたり自分の香りを気にしてばかりいたり、ムダ毛を抜いたり剃ったりした所で男は可愛くなんか無い。

そんな女ウケする事ばかり気にして生きている似非男の事を昭和の男は心底軽蔑する。

上っ面だけの生き方を死ぬまで上手くやり抜く事が出来る程には人生は長くは無い。

私が最近地上波放送を観なくなったのは、コンプラだかガンプラだか知らないが、直ぐに暴力描写がどうたら。性描写がどうとかと喧しいクセに、化粧しまくったヒョロっちい女みたいな男や他所の国の女顔のイケメン?とか、オカマばかりが市民権を得てメディアに進出してきて露出回数がやたらと多いからだ。

別にそう言うのが好きな人は見たけりゃ観れば良いし否定はしない。

でも、心の何処かで「不自然さ」を感じているのに、それに蓋をしてまで無意味に一方的に垂れ流している地上波放送を無理してまで視聴する気は無い。

その昔、金曜ロードショーではダーティハリーや燃えよドラゴン等のドンパチ物や暴力描写のキツい映画も平気で放送していたし、その番組の最後には水野晴郎氏が「いやぁ、映画って本当に素晴らしい物ですね~。」等と言いながら締め括っていた。

それで良いでは無いか。

何で毎年毎年夏になると「ジブリ祭り」と冬場には「ハリー・ポッターシリーズ」をエンドレスに垂れ流す必要が有るのか?

子供が観るから悪影響を及ぼす恐れが有るから?

昭和の親御さんは一同に口を揃えてこう言ったでは無いか。

「さあ寝なさい。子供はもう寝る時間だ。」

その一言で済む話だ。

どうせ物心が付いて来た日には、エロやらグロやら暴力の現実やそれ等を題材にした映画のエンターテインメントとしての演出と言う物を嫌でも知る日が来るのだから。

平和ボケして寝ぼけるのも大概にしなきゃいけない。

「お~っと。お前の考えは分かっている。」

「俺がもう六発撃ったか。まだ五発か。」

「実を言うと俺もつい夢中になっちまって、数えるのを忘れちまった。」

「だがこれはマグナム44と言って、世界一強力な拳銃だ。お前のドタマなんか一発でブッ飛ぶぜ。運が良けりゃあな。」

「さあ、どうする?」

山田康雄の吹き替えのこんな台詞すらも今じゃコンプラ違反とかで地上波では放送も出来ないのか?

そんなアホみたいにつまらない倫理観を押し付けて来る輩はポール・カージーの指ピストルで撃たれるが良い。

狼よさらば。

されど男の生き方はヘビーデューティーで有るべきだと思う深夜の私でした。