写真小史 - ヴァルター・ベンヤミン

芸術から一回生のアウラが消滅する複製技術の時代にあって、写真の可能性と、そこから派生する使命とはなんだったのか?

ベンヤミンの写真史は初期から、1930年代までの作品をベンヤミンなりの視点で体系化したエッセイである。

 

写真の始まりの霧は、印刷術のそれに比べて、明確性を帯びている、それは、カメラ・オブスクーラから、ダビンチの時代から、いかに定着するかという目標があったからだ。

ニエプスとダゲールは、約5年間にわたりほぼ同時にこの目標に達した。その特許権に絡む問題を国が保証金を支払い、この発明を公開した。

名刺版写真や、それらによって、その後の写真術の展開が、加速される事となった。

写真の発明から、最初の10年は、産業化に役立った。その反面、演芸的な側面もあったが、結果として、その産業は世界を席巻するのである。

そして、この時、写真は、絵画(肖像画等)からのリレーのバントを受け取った。 

fig.研究室からの眺め-ニエプス1826

シーボルトの貢献と開国(視覚化された日本列島と開国)

 

シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold,1796-1866 ドイツ人医師・博物学者)は、1823年に来日した翌年に、長崎に鳴滝塾を開設し、日本各地から集まってきた医者や学者たちに講義する等して日本の文化に貢献した。

しかし、*シーボルト事件により、江戸時代後期の1828年にが国禁である日本地図などを日本国外に持ち出そうとして発覚したといわれ、関係者が多数処刑された。その背景には、1825年には異国船打払令が出されており、外交は緊張状態にあった。

 

(註)*シーボルト事件

文政11年(1828年)9月、オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死した。

樺太東岸の資料を求めていた景保にシーボルトがクルーゼンシュテルンの『世界周航記』などを贈り、シーボルトは、江戸で幕府天文方高橋景保のもとに保管されていた伊能図を見せられた。地図は禁制品扱いであったが、高橋景保はその写しをシーボルトに渡した。シーボルト事件はこの禁制の地図の写しを持ち出したことにあった。

 

 

シーボルトが1826年7月に江戸参府から出島に帰還し、1000点以上の日本名・漢字名植物標本を蒐集できた。

しかし、伊能図の写しの持ち出しもあり、江戸幕府からの追放され、シーボルトは、1830年、オランダに帰着する。

 

シーボルトの人間性は、そこで終わらない。

シーボルトは、江戸幕府による国外追放後に彼は全7巻の大著『日本』を公刊し、わが国のことを世界に伝えた人物である。

翌年にはオランダ領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託されている。

 

そして、シーボルトは安政の開国で追放が解除されたのち安政6年(1859)に再来日し、後に江戸幕府の外交顧問に就任している。

シーボルトのおかげで鎖国・*攘夷論を排して開国が出来、西洋文化が導入出来たのもシーボルトの功績が大きいといわれる。

 

*(註)攘夷論(じょういろん)は、日本で幕末期に広まった、外国との通商反対や外国を撃退して鎖国を通す、排外思想。

 

Kunyu Wanguo Quantu(クヌユ・ワンゴ・クォンタウ)-「世界の無数の国の地図」

それは、イエズス会の地図作成(Kunyu Wanguo Quantu 1602年)は、地理的構成の視覚的イメージと共に、創造主の意義として表現した。

江戸幕府が、樹立されたのは1603年という学説から、鑑みても、日本に於けるそのイメージ地図の影響は、伊能忠敬(1745-1818)の日本とその周辺の地図にも、過大な影響を与えているだろう。