アンドリュー・ワイエス(Andrew Wyeth US 1917- 2009) 

アメリカン・リアリズムの代表的画家とも言われる、だが、見なくても「モノ存在する」事も表現している。(日本画の世界に共通する)

アメリカ東部の自然と共存して、その生まれながらにして公平ではない人々を描いた。

作品には、障害を持つ女性や、より人種差別が激しい時代、黒人等、弱者と言われる人々を描かれていた。

そのシーンは、地方の町チャッズフォード、そして、メイン州クッシング(避暑地)で主に描かれた。生涯、アメリカから、出たことのなかった彼は、人々に「移民の国アメリカとは何んだろうか」と、問いかけが、テーマだったと後世語っている。

 

ワイエスのその視点は、幼少期から、身体的にも精神的にも良い状況になく、ほぼ義務教育も受られず、家庭教師や父から必要なことは学んだという孤立感も大きな要因だし、第二次大戦で入隊を志願したが、却下された事もあるだろう。

 

 

そのような状況下での、アンドリュー・ワイエスにとって、父である、N.C.ワイエス(挿絵画家)の影響も過大なものであった。

その転機として、、父の踏切での自動車事故死(1945)であったと言われる。

 

そして、

1940年 妻に紹介された、クッシング別荘の近くに住んでいたオルソン家(スウェーデンからの移民)のクリスティーナ・オルソンとアルヴァロ・オルソン姉弟をモデルに描き始めた。

代表作と言われる「クリスティーナの世界-1948」は、

ただ、女性(クリスティーナ)が草原に座っているだけのようだが、ポリオ(急性灰白髄炎)で足に障害のあるクリスティーナが、腕の力で這って自宅へ戻る様子である。

「クリスティーナの世界」、それは、誰しも、その生命力に感動せざるを得ないだろう。

ワイエスの視点(セオリー)、そしてクリスティーナの生命力は、今後も多くの、そう、障害のある方の、心の支えともなるだろう。

 

 

美術、芸術と言われるモノは、本来、間接的にせよ、そう言うものなのだ。

ヴァルター・ベンヤミン著作集III 「言語と社会」解釈

解釈「言語と社会」ヴァルター・ベンヤミン著作集IIIから、「言語一般および人間の言語 」 1916

 

解釈「言語一般および人間の言語 」

人間の精神面の表出は、すべて、言語の一種として把握することができる。

この把握にあたっては、至るところで新たなる問題の提起の道が開かれた。

簡単に言えば、精神面全ての伝達は、すべて言語に他ならない。

精神本質は、それが伝達可能な限りにおいてのみ、それは、言語の本質と一致する。

また、人間言語の本質は、事物に対して、命名することなのだ。

その命名することが、自己を伝達することなのだ。

それは、だれに伝えているのか?

人は、どのように自己伝達をするのか?

 

そこから解釈できることは、人間のみが普遍性と集中性の両面から、完全な言語を有している、ことだろう。

それは、また、*形而上学的な重要な要素を持ち合わせているだろうが、まずは、精神的本質とは、言語的本質と呼ぶことができるか?

精神的本質=言語的本質であれば、事物(表象・事象)は、その精神的本質の媒体となろう。

所謂、言語の内容等は存在しない、伝達している言語は、精神的本質を伝え、それは、伝達の可能性そのものを伝えることなのだ。

 

このベンヤミンの思想は、神学とマルクス主義にも由来する社会学を融合した特異性をもち、他との同一化を拒む部分もあり、現在、多様な解釈もあるだろう。


(註)*形而上学とは、感覚ないし経験を超えた世界を「真実在」とした場合、その世界の普遍的(共通)な原理について理性的な思考(感覚・知覚と異なる知的精神作用)によって認識しようとする学問、また、哲学の一分野である