水の匂い

 大垣の水路の脇に、祖母の家はあった。板塀の裏を流れるのは、少し濁ったゆるやかな水。夏には藻が茂り、冬には白い霜が橋桁に張りつく。子どもの頃から慣れ親しんだその水辺の匂いは、祖母の家の空気と分かちがたく結びついていた。

 祖母が亡くなって間もないある日、母に連れられてその近くの親戚の家を訪ねた。まだ喪失感が鮮やかに残る中、私は玄関で足を止める。奥の座敷に、祖母と似た顔立ちをした老女が床についていたからだ。

 「東京から、来なさったのかね」
 かすれた声が私に向けられる。
 「どうりで、垢抜けた格好をしてござるがね」

 私は返す言葉を見つけられず、ただ頷いた。Tシャツにスリムなジーンズ。高校二年の自分には当たり前の服装だったが、その場ではやけに場違いに思えた。肩から下がる空気までもが重たく、声を失ったまま座敷に立ち尽くした。

 祖母を亡くしたばかりの私は、死というものの輪郭をまだつかみきれずにいた。老女の声が、まるで祖母自身の口からこぼれたかのように響き、胸の奥の澱んだ感情を強く揺さぶった。

 その時、外からふわりと水の匂いが流れ込んできた。水路の泥と藻、そして湿った土の混じり合った匂い。鼻腔にまとわりつき、逃れようもなく私の意識に刻み込まれる。私はその瞬間を、鮮烈に覚えている。

 

 ――それから五十年の歳月が過ぎた。

 私は今、上海の運河沿いを歩いている。水路を擦るようにゆっくりと進む小舟。積荷の隙間から垂れる水滴。街の喧噪を遠ざけるように、湿った空気が漂っていた。ふと、その中に漂う匂いがあった。

 大垣の水路で嗅いだ、あの日の匂い。藻の青臭さ、泥の重み、土の湿り。それらが五十年の時を超えて、私の記憶の底に沈んでいた祖母の声を呼び覚ます。

 「東京から、来なさったのかね」

 その言葉が、耳元でささやかれたように甦った。私は立ち止まり、運河の水面を覗き込む。揺らぐ光の中に、祖母の面影が一瞬重なった気がした。水は途切れることなく流れ続ける。人の命もまた、その大きな流れの一部なのだろう。

 私はそっと目を閉じた。胸いっぱいに吸い込むのは、五十年前と同じ水の匂い。遠い過去の記憶と、いま目の前の運河とが、一本の見えない糸でつながる。その瞬間、私は時を越えて祖母と再び語り合っているような感覚に包まれた。

 水の匂いは、ただの自然の匂いではない。それは記憶の底に沈み、人生の節目にふと立ち現れて、過去と現在を結びつける。私にとって水の匂いとは、祖母と過ごした日々の記憶そのものであり、同時に人の命の流れを思い知らせる象徴でもあるのだ。