以前、コデインの影響で腎機能の低下を指摘されたことがある。 そのとき初めて、自分の体がずっと無言で訴え続けていたことに気づいた。 でも、その“事実”を知っただけでは、私は腎臓に向き合えたとは言えなかった。

 

あるとき、ふと意識が腎臓のあたりに向いた。 尿量が明らかに減っているように思えた。腎臓がもう悲鳴を上げているんじゃないか? 手を当てて目を閉じた瞬間、ひっそりとたたずむ“感情”のようなものが浮かび上がってきた。

 

それは、はっきりとした痛みではなかった。 けれど、奥深くに染みついていたような、冷たくて重たい感覚だった。

 

――「恐れ」だった。

 

何に対する恐れかは、すぐにはわからなかった。 でも、じっと感じていると、そこには“見捨てられるかもしれない”という不安や、 “もうひとりでは抱えきれない”という叫びがあった。

 

まるで、腎臓が「怖かった」と言っているようだった。 誰にも気づかれずに、黙ってその感情を抱え続けていたような、 そんな奥ゆかしい静けさを感じた。

私はそっと言葉をかけた。 

 

「ごめんね、そんなに怖かったんだね」 

「一人で、ずっと抱えてきたんだね」

 

すると、不思議なことに、腎臓のあたりから、ふっと力が抜けたような感覚が走った。 

長い間閉じ込められていたものが、ほんの少しだけ、解けたような感覚だった。

 

腎臓は、感情の“フィルター”だと言われることがある。 でもそのとき私が感じたのは、フィルターというよりも、 「もう限界です」と言えなかった場所だった。

 

頑張ることが当たり前になって、 無理していることすら忘れてしまっていた自分。

麻薬を服用してまで他人に迷惑をかけられないという、脅迫的な思い込み。

その裏側で、腎臓はずっと、声にならない“恐れ”を受け止めてくれていた。

 

もしかしたら私は、ずっと「安心したい」と願っていたのかもしれない。 

誰かに助けてほしいとさえ言えず、ただ黙って立っていた。 

そのすべてを、腎臓が感じてくれていたのかもしれない。

 

私は最後に、こう声をかけた。 

「ありがとう。私、ちゃんとここにいるよ」 

「もう、一人じゃないよ」

 

腎臓に向けて手をあてながら、心の中で光を流していった。 そして、ふと感じた。

――「私は、私の中に“帰ってきた”のかもしれない」

 

小さなことば

 感情は、どこかに閉じ込められても、必ず体のどこかに残っている。 それは痛みではなく、時に静かな違和感として現れる。 あなたの中に残っている“恐れ”に、そっと手を当ててみてください。 あなたが向き合ったその瞬間から、体と心は、ゆっくりと一緒にほどけていきます。