■はじめに――――――
本記事は、貴志祐介氏原作「悪の教典」(文春文庫/上下巻の小説、講談社/全9巻刊行の漫画版、作画は烏山英司氏)の二次創作小説となります。
閲覧に至っての注意点等は下記を。
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〈――という訳で⋯⋯いやー、まさか、こんなに大人しそうな動物でも、人に襲い掛かるなんてことがあるんですね〉
〈ええ、日本ではあまりお目にかかれないですが、大型のシカ類なんかは子ども連れ、あるいは発情期には気が立ってもいますし。いかに普段温厚な草食動物でも油断は⋯⋯〉
――プツッ。
日課となった朝のジョギングを終え帰宅すると、居間のテレビが点けっぱなしになっていたため、蓮実は慌ててリモコンを操作した。
節約を徹底している自分にしては珍しい。首を傾げつつも浴室に向かい、シャワーを浴びながら今後の王国運営について思案を講じる。
当面の最大脅威であった釣井の排除も完了した。
学園最大級の問題児も、我が聖域にズカズカと割り込んでくる小物の部外者も、もう存在しない。
後は、苦心して手に入れた学園有数の美少女たちを愛でながら、王に相応しい悠々とした生活を謳歌できる⋯⋯。
――しかし、どこかに違和感がある。
もしかしたら、これからとてつもないレベルの厄災が降りかかってくるのではないだろうか。
遥か遠くで雷鳴を轟かせている黒雲が忽然と、頭上に姿を現すかのように⋯⋯。
うまく言語化出来ない予感めいた不安だが、蓮実は自らの、順調である筈の行路に潜んでいるやもしれない陥穽の存在を懸念していた。
とはいえ、直近の盗聴器チェックでは、取り立てて異常を示すような情報は確認しておらず、**高校の件についても、寒河江教諭に釣井自殺(に見せかけた殺害)の報を入れた際、他にも生徒連続自殺の旨を嗅ぎ回っている人間が、との言質も無かった。
杞憂によってナーバスになっては本末転倒かもしれない。
蓮実は入浴を終えると、バスタオルで入念に身体を拭いて、着替えを済ませる。
そして、いつものように戸締まりをしてから、ハイゼットに乗り込んだ。
「OK! それでは、SHRはここまで。皆さん、今日も一日エネルギッシュにいきましょう!」
蓮実の溌剌とした声が二年四組に響き、生徒たちは一限目の準備を始める。
「ハスミーン! おっはよ~!!」
例によって、安原美彌を加えた親衛隊の面々、阿部美咲、佐藤真優、三田彩音が教壇に集まり、蓮実にスキンシップを図ってくる。
「Good Morning! ハハッ、おいおい、エネルギッシュに、とは言ったけどそういう意味じゃないんだから! 真面目に勉学に打ち込まないとな。特に、一限目は数学だろう? いくら釣井先生の授業が退屈だとしても⋯⋯あっ」
そこまで言い終わり、蓮実はしまった、という顔をする。
慣れとは恐ろしいものだ。まさか、つい先日始末したことを、この短い間に忘れてしまっていたとは。
待ち伏せに時間は食ったものの、殺害に当たっては、あまりに造作なかったため、自らの海馬すらからも排除されかかっているのかもしれない。
しかし、この言い間違いには利用価値がありそうだ。
「すまない⋯⋯イヤなことを思い出させてしまったね。ただ、⋯⋯どうしても受け入れることが出来なくて⋯⋯つい⋯⋯」
すぐさま『しおらしい』表情を作り、俯き気味に、そう声を絞り出す。
「釣井⋯⋯先生、本当に残念だったね」
「授業はサイアクだったけど、居なくなっちゃうのは⋯⋯ちょっと寂しいかも」
美咲や真優、彩音らがしんみりと言葉を紡ぐ。
「⋯⋯ハスミン? 泣いてるの⋯⋯?」
美彌が、目頭を押さえながら沈黙している蓮実に問い掛ける。
蓮実は軽く首を横に振った後、「大丈夫」と答え、美彌と親衛隊の頭を『くしゃくしゃ』してやる。
「⋯⋯俺にも、もっと出来たことがあったんじゃないか、と思うとどうしても、ね。自分の未熟さを痛感しているよ。ただ、校長先生の話にもあったように、人が一人亡くなる、ということは、その人間だけの問題じゃなく、他の一人一人にも心の傷を負わせてしまうものなんだ。⋯⋯お前たちは、まだまだ若い。縁起でもないことを言って申し訳ないが、どんなに⋯⋯それこそ死にたいくらいに辛いことがあったとしても、自ら命を絶つなんて、選択肢に入れることすら、してはいけない。『今、この瞬間』にしか出来ない、勉強に、友だちと過ごす、かけがえのないふれ合いの時間に、どうか全力で向かい合ってほしい。それが、釣井先生がお前たちに何より願っていることだと、俺は信じているから⋯⋯」
手前味噌ながら、朝から良い『演説』が打てたものだ。
実際に、蓮実の涙ながらのメッセージを受けた美彌と親衛隊、それから少し離れて聞いていたESSメンバー、他の女子も、心を打たれたような相貌で、教壇へと尊敬のまなざしを向けている。
「ハスミン⋯⋯優しい⋯⋯。泣かないでっ! わたしたち、頑張るから!」
「そうそう! だから、ハスミンが気にすることじゃないよ! いまハスミンが言ってくれたこと、きっと天国で釣井先生も喜んでくれてると思う!!」
教壇周辺は今や、『蓮実讃歌』のリサイタル会場と化していた。
『小肥りメガネの秀才』渡会健吾は、げんなりとしている。
「よくもまあ、思ってもねぇことをペラペラと⋯⋯。朝っぱらから『教祖様の金言』に感謝感激、ってか? 鼻白むにも程があるぜ」と、いかにも人を見下したような声色でニヤつく。
周囲に聞こえるかどうかの小声のためか、ほとんどのクラスメートは無反応だったが、偶然近くに居た怜花の耳には入った。
健吾のその面相や、卑しさが滲む口調には嫌悪を催したものの、発言の中身には大いに同感していた。
やはりこれからは、よほどのアクシデントがない限り、自然発生的に蓮実の馬脚が顕わになることはないだろう。
「So moving⋯⋯! お前たちのそうした言葉が、俺は何より嬉しいよ!! あっ、これは大隅先生! すみません、すぐに出ますので。それじゃあ、お前たち、また二限でな!」
死亡した釣井教諭、職を追われた真田教諭に代わり、四組の数学を受け持つことになった大隅主幹と入れ替わるように教室を後にした蓮実の姿を見ながら、怜花はそう感じた。
「では、今日はこの辺りで。複素数についての理解は受験にも必須だから、よく復習しておくように」
いかにも人格者然とした大隅教諭の掛け声で、一限目の数学が終わり、コマ間の十分休憩に入る。
次は、担任の蓮実教諭による英語の授業だ。
怜花、雄一郎ともに周囲に緊張を悟られまい、とはしていたが、やはり気を張った様を滲ませている。多分、授業内容など、うわの空になるだろう。
LANEに新着メッセージの通知が来ていた。圭介からだ。
〈いよいよだな! 準備どーよ? 怜花! 根性見せろよ〜!〉
緊張をほぐしたいのか何なのかは分からないが、『ガンバ!』と書かれたメッセージボードを持った、奇っ怪な生きもののスタンプまで付いている。
こき下ろしたくなるが、ぐっ、と堪えて〈ありがと、心配ないから〉とだけ返事を書き込む。
二限目の開始を告げるチャイムが鳴り、蓮実が再び四組の教室に現れた。
「Hello,everybody! ご機嫌如何ですか? といっても、朝に会ったばかりだな! よし、それでは前回のテキストの続きから⋯⋯」
怜花は静かに息を整える。寸毫の間、目を閉じ、綿密に打ち合わせした『計画』の内容を思い返した。
決して、気付かれてはいけない。
気持ちを落ち着かせた後、そっと目を開く。
視線の先には、いつもの調子で、軽快に授業を繰り広げている蓮実の姿があった。
授業終了後が、勝負だ。
―――
――
―
「蓮実の毛髪⋯⋯ですか?」
怜花をはじめとした一同、凛太朗からの思い掛けない指示に、きょとん、としている。
「ああ。これは『物証の一つ』として、是非とも取得しておきたい。真田先生の事故について黒幕が蓮実であるなら、奴が車を運転して彼を学園まで運んで来た訳だからね。その際に『車内から見つかったもの』として突き付けようかと思っている」
三人ともどこか釈然としていないような素振りを見せている。
特に圭介は、凛太朗の、ことこの言い分に関して目立つ、『粗』のようなものを奇異に感じているようだった。
「それは無理があんじゃねぇの? 確かに、真田の車を運転していたのは蓮実だろうから、車内に奴の髪の毛が残ってる、ってな算段は成り立つ。けど、それが本当に『車の中に残ってたものか』なんて、どうやって証明すんだよ?」
「うーん⋯⋯あっ! 下鶴刑事が事故後に車をチェックして、髪を見つけた、って可能性は?」
雄一郎が圭介の疑問に対し、発言する。
「それなら⋯⋯ていうか、真田先生の車って今どうなってるの?」
怜花がその後を継いで尋ねた。
「事故車として、まだ警察関係の施設にあるらしい。まあ、それならまだ、雄一郎が言った線で強弁は出来る。管轄違いでも、ゴネれば何とかはなるだろうからな。⋯⋯ただ、今気付いたんだけど、蓮実の立場からすりゃ、それが、真田の車から見付かった、ってことを認めたとして、大した痛手になるとも思えねぇ」
「え? 何でだよ?」
雄一郎は梯子を外されたような気分になった。
「いくらでも言抜けが出来そうじゃねぇか。『真田の酔いが激しかったから、車内に入って乗り込むのを手伝ってやった』とかよ。車が出るまで目撃者もいなかったみてぇだし、いかにも自然だろ」
「あっ⋯⋯そっか⋯⋯」
怜花も圭介の言い分に納得をしたようだ。
三人の議論を観察しながら、なぜか凛太朗は感心したように笑みを浮かべていた。
「⋯⋯そう、指摘してくれたように、これは何も決定的な証拠ではない。寧ろ逆で、こちらが別に、合わせて隠し持つ切り札をより強力に作用させるためのハッタリ、言うなれば、前座だな」
「けど、他に決定的な物証が用意出来るなら、それをストレートに蓮実にぶつければいいんじゃ⋯⋯」
雄一郎が不思議そうに尋ねた。
「ことを侮ってはいけない。どんなに確実な証拠であっても、相手の心に隙のない状態で使用すれば、思わぬ反撃を食らってしまう可能性もある。蓮実は、自分の犯行の完璧さに自信を持っている筈だ。まずは、奴に自身の優位性をたっぷりと味わわせる。⋯⋯その後の解体の一撃を放つにあたり、そいつはこの上ない囮弾頭としての役割を果たしてくれるんだ」
凛太朗の表情が、策士のそれになっている。
恐らく、もう一つの物証とは、確実な決定打を狙える代物、ということだろう。
三人は引き続き、固唾を飲んで説明に耳を傾ける。
「そして、どうやって蓮実の毛髪を手に入れるか、だけど。まさか、通り過ぎ様に直接引っこ抜く訳にいかないからね。ちょっとした筋書きを考えてみた。その実行には⋯⋯片桐さん。君が適任だ」
「わたし⋯⋯ですか?」
怜花は思わず怖気づく。
「片桐さん、目はあまり良い方ではないよね? それと、これは推測だけど、今の教室での座席順も、比較的後ろ側なんじゃないかな?」
「! どうして分かったんですか?」
図星を突かれた怜花が驚きの声を上げた。
凛太朗によると、来店したとき、入口に立った自分を見つめていた他の二人と比べ、怜花だけ目を凝らすような仕草をしていたこと、さらに、テーブルの資料を眺めるときも、一瞬だけ前傾姿勢になる動作から、『教室の後ろで、板書の読み辛い箇所を覗き込もうとしている生徒』のイメージが想起されたから、とのことだった。
「まあ、必ずしも、視力に問題がある子でないといけない、というのでもないんだけど。それよりは、多少目が悪いという事情があった方がより自然だから。――では。具体的にどう動くのか、だけど⋯⋯」
キーン、コーン、カーン、コーン⋯⋯。
「はい、OK! 今日は思いの外、捗りましたね。次回はテキストの42ページから! 長文問題で『使える』イディオムが満載ですので、是非とも、Try to do some preparation beforehand! それではまた、HRまで、See you again!」
歯切れのいいテンポで授業を終えた蓮実教諭が、出席簿や教材を片し、教壇を降りていく。
そして、まさに教室のドアに手を掛けようとした、そのタイミングを見計らい、怜花は立ち上がった。その手には、英語科目の板書書き取り用ノートとペン。
なるべく目立たぬよう、教壇付近まで移動する。
板書の見え辛かった部分を確認するため、ときおりペン先でホワイトボードを指しながらノートに筆記をする動作を行う。
クラスの中でも内気かつ、真面目な彼女が授業を中断させてまで「文字が見えにくいところがある」などと訴える筈もなく、それはごくありふれた風景として、周囲からは処理された。
もっとも、彼女の視点はホワイトボードよりも下方――今し方まで蓮実が歩き回っていた床――を中心にしているのだが。
この作戦の決行日は今日が最適だった。英語の授業は週に四限ほどあるが、その内の二限は時間割の後半になっており、他の人物の毛髪に紛れやすい。月曜の二限目(今日)と木曜の一限目がベストだが、今日決める心づもりで動いた方が得策と言える。
誰も、人一倍恐怖心を抱いている人間の髪を拾う作業など、後手に回したくなどないからだ。
幸い、蓮実の髪はウェーブ掛かったそこそこの長さがある特徴的なもので、視力に若干の難があったとしても、教壇のすぐ近くまで来れば一、二本は見付けられるだろう。健康な人間でも、毛髪は一日に五十~百本ほどは抜け落ちるのだから。
怜花が毛髪探索犬となっている間、雄一郎も事前の打ち合わせ通り行動を開始する。周りの人間を少しでも教壇から遠ざけねばならない。
『クラス一のお調子者』有馬透が教壇の方へ向かおうとしていた。さしずめ、皆の気を引こうと、ホワイトボードに悪戯書きでもしようというのだろう。
「おーい、有馬! 見てみろよ、あれ!」
雄一郎が、窓の外を指差して叫んだ。それを聞いたクラスメイト数名、何だ何だ、と教室の後方に移動していく。
「んだよ、夏越。何もいねぇじゃん。どうした?」
方向転換してきた有馬が雄一郎に問い正す。
「あれ? ⋯⋯いやー、さっきすっげぇでかいカラスが飛んでたんだけどなー。見間違いかなあ?」
些かしどろもどろになりながら雄一郎がそう返すと、有馬は不審そうに首を傾げる。
しかし、ほんのわずか振り向いた怜花と、雄一郎が目を合わせた様子を見て、ピンときたようにニヤニヤし始め、雄一郎の肩を叩く。
「分かった、分かった。取ったりしねぇ、って。ま、可愛いから心配になるのは分かるけどよ。おい、みんな~! 夏越のフィアンセの邪魔しちゃ駄目だぜ~! 前の方には近づくんじゃねぇぞ~!」
手をメガホンにして、おちゃらけながら宣う。
「バッ⋯⋯違ぇよ!! そんなんじゃねぇ、って!」
「隠すなってーの! なあなあ、お前らってどこまでいったの?」
ここぞとばかりに有馬が雄一郎をからかうと、周辺の人間も何のことやら、といった表情で集まってくる。
陽動作戦としてはうまくいきそうだったが、ややこしいことになった。後から弁解が必要だろう。雄一郎は、思った。
(何やってんのよ、もう⋯⋯)
怜花は背後の喧騒を意識しながらも、蓮実の毛髪を探し続けていたが、教室前方のドア付近を見やった途端ドキリ、とする。
SHRのときと同様、美彌+親衛隊の四人組が蓮実を取り巻いていた。後方のざわつきも目には入っていたようだが、それを歯牙にかけず、はしゃぎ気味に『ハスミン』を入り口付近に引き留めている。
まずい⋯⋯。一刻も早く、この場から脱しなければ。でも、なかなか⋯⋯。『ウェーブ掛かった毛髪』の見当たらなさにもどかしさが募っていく。
と、そのとき、蓮実の声が。
「こらこら、お前たち! 元気なのはいいけど、もう少しModerationを持たないとな。⋯⋯ほらっ、Miss Katagiriを見習いなさい! 朝も言ったように、Studentは勉学が仕事なんだから!」
ノート片手に、一生懸命に板書の見直しをしている(ように見える)怜花を指して、蓮実は笑みを湛えつつ、暗にその場のお開きを要求する。
(余計なこと言わないでよっ⋯⋯!!)
怜花は心の中で絶叫した。緊張がピークに達している。ことを急がねば。
「えっ⋯⋯ちぇっ、は〜い」
口を尖らせながら手を振る四人組に見送られながら、蓮実がその場を後にする。
それを横目に怜花は再度、床に視線を戻す。
そして、ある一点に釘付けになった。足元から1mほど先、少し波打ち気味の、艶のある黒髪が落ちている。
――あった! 間違いなく蓮実の、それだ。
生唾を一片飲み込んだ後、ペンを握る手の力を少しずつ緩めようとした、そのとき。
「⋯⋯おい」
怜花はビクッ、と身をすくめた。阿部美咲の声だった。佐藤真優、三田彩音を連れ、物凄い剣幕で詰め寄って来ている。
「てめぇがしょーもないことしてたせいで、ハスミン行っちまったじゃねぇか⋯⋯。どうしてくれんだよ、あ?」
そんな、無茶苦茶な。心臓が止まりかける。
横暴にも程がある難癖だが、彼女の、学園内随一の『蓮実教徒』ぶりを持ってすれば、正当化されるべき怒りなのだろうか。
真優、彩音もともに、不快感丸出しの形相で凄んできた。
ただ、美彌はというと、なぜかその輪には加わらず、腕組みをしたままドアにもたれかかり、冷笑しつつその様子を伺っている。
(勝手なマネすんな、っつったのに⋯⋯。あ〜あ)
とでも言いたげに、この場面を楽しんでいるかのようだ。
怜花の『セクハラ密告』のおかげで結果的に蓮実との仲が親密になったこともあり、美咲たちに加勢する判断はパスしたようだが、さりとて、それを借りとして扱ってやる義理もない、という結論からだろう。
ともあれ、最悪な状況であることに相違ない。一体、どうすれば⋯⋯。怜花は打開策を考える。
(⋯⋯っ! 怜花っ!)
作戦中断もやむなし、か。雄一郎が身を乗り出す。
「⋯⋯!」
怜花は頭をフル回転させた結果、妙案を思いつく。
「ああ⋯⋯あ⋯⋯ごめんなさい⋯⋯」
眉を八の字に結び、大袈裟に思えるほどの涙目の様相で、よろめいてみせる。さらに、手が震えて思わずペンを落とした風を装い、蓮実の髪が落ちている方向にそれを投げた。
半ベソをかきながら、震え気味に訴える彼女を見て、真優と彩音は失笑している。
「プハハッ! おいおい、何本気でビビってんだよ? だっせぇな」
仲間たちのそうした声を聞いて、美咲も溜飲を下げたようだった。
「⋯⋯フン、これに懲りたら二度となめたマネすんじゃねぇぞ」
つっけんどんに言い残すと、背を向けてその場を後にしようとする。
怜花が頭を下げた後、美彌と目が合う。
彼女は一瞬だけ何かを言いたげな態度を示したが、すぐに興を削がれたのか、美咲たちとともに廊下の向こうへ去っていった。
それを見届けた怜花は、床に落としたペン――黒髪が二本ほど巻き付いている――を拾い、急いでポケットにしまう。
「フウッ⋯⋯」
一連のやり取りを見ていた雄一郎が、安堵の溜め息をついた。まとわりついてくる有馬をあしらうと、自席に戻り、怜花と合流する。
――スッ。
彼女の指が机の下で『OKサイン』を形作ると、雄一郎は親指を立てて、労をねぎらう。
「怜花⋯⋯。お前、女優の才能あんじゃねぇの?」
――ドスッ!
雄一郎のみぞおちに怜花の正拳突きが食い込んだ。
「は〜ん。これが『大明神様』の麗しき髪の毛かー。蓮実教信者に言ったら十万くらいで売れるんじゃね?」
昼休みの屋上、ジッパー付きの袋に入った、黒々とした二本の毛髪を陽光にかざしながら、圭介が呟いた。
「⋯⋯気持ち悪いこと言わないでよ。わたし、心臓止まりかけだったんだから」
怜花の顔には、明らかに疲労の色が滲んでいた。
何はともあれ、『第一の物証』の取得は完了した。次は本丸の『決定的証拠』の奪取に動く段ではあるが、凛太朗との事前相談により、スケジュール的にも、メンバーの心労――特に怜花――的にも、日を改めて行うことになっていた。
スピード勝負とはいえ、急いてはことを仕損じる。慎重を期するのも妥当だった。
「雄一郎⋯⋯。悪いんだけど、それ預かってくれない? 持っておくの怖くて⋯⋯」
怜花が浮かない口ぶりで請願する。
「お⋯⋯おう。分かった」
雄一郎は戸惑いながらも、蓮実教諭の毛髪が入った袋を圭介から受け取った。