■はじめに――――――
本記事は、貴志祐介氏原作「悪の教典」(文春文庫/上下巻の小説、講談社/全9巻刊行の漫画版、作画は烏山英司氏)の二次創作小説となります。
閲覧に至っての注意点等は下記を。
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凛太朗は冷たくなったアール・グレイティーを一口啜る。
怜花が『毛髪探索』の際に起こした騒動は、親衛隊メンバーの攻撃的性質、楓子の蓮実に対する信頼感、その世話好きな性格からくる言動を、予想だにしない特別行事へと変える力があったようだ。
ただ、蓮実教諭の動きを止めておくには、正に打ってつけの状況ではあるのだが、一時間近くも、授業中とは比にならないほど間近で怪物のレッスンを浴び続けることになるなど、怜花にとっては拷問に等しい処遇に相違ない。
「⋯⋯少し気になったんだけど。今回、俺に補習をしてほしいというのは、Miss Katagiriの提案によるものかい?」
そんな訳ないだろ。
蓮実からの素朴な疑問を受け、怜花は心臓が竦みあがるような気持ちに襲われる。
「い、いえ! 今朝、たまたま、来年は受験だし少し不安、みたいな話をしてて⋯⋯そしたら、楓⋯⋯小野寺さんが、せっかくだから、って」
あたふたとしながら、そう答える怜花へ、楓子と舞が助け舟を出した。
「ハスミン、一昨日のこと覚えてる? 怜花、授業が終わってからすぐに板書の見直しに行ってて。すっごく熱心なんだから!」
「放課後は、やっぱり美咲のこととか考えると⋯⋯実はあのときハスミンがいなくなった後、ちょっといざこざがあって。大したことはなかったんだけど、いきなり部活に混ざってもらうのはどうかな、と思うの。ハスミンには、お昼休みなのに悪いな、って分かってはいるけど⋯⋯」
舞が言った『いざこざ』の内容が気になるところだが、優等生二人からそう懇願されれば、吝かではない。取り巻きの亜里やまどかも、心躍らせている様子だ。
だが⋯⋯。
蓮実は、この事態に対する、言いようのない違和感の正体を探るべく、頭を高速回転させた。
まず、『昼休みにクラスの生徒たちに教えを請われる』ということ自体には、何も疑うところはない。日頃培われてきた信頼感の賜で、授業間の小休止にすら擦り寄ってくる子らが、ランチ・タイムを利用してここぞとばかりに自分を独占しようとしてくるのは、寧ろ喜ばしいと言っていいくらいだろう。
――しかし、今回はどうにも、タイミングと、そのメンバーが気掛かりなのだ。
今一度、『違和感の正体』を明らかにするためのキー・パーソンである、伏し目がちにまごつく、目の前の少女に視線を向ける。
⋯⋯片桐怜花。前々から、どこか自分の存在に恐怖と警戒心を抱いていることは知っている。一昨日の授業終わりの挙動。彼女の真面目な性格は理解しているので、当時は不審には感じなかったが、もしかしたら、あの行為にも何か他の意図が? そして、今のこの状況。校内の巡回業務が今日は空いている、というのは単なる偶然だろうか。
思考のギアを強め、推察を巡らせるが、確信的な回答は掴めそうにない。
数秒にも満たないような沈黙の時が、怜花には永遠にも感じられた。すでに生きた心地がしていない。
⋯⋯もしや、この機会を利用して何らかの探りを?
いや、だとしたら逆に不自然だ。周囲を全員自分に忠実な、自家薬籠を絵に描いたような生徒ばかりに囲われた中、何らかの企てを全う出来る胆力が彼女に備わっているとは思えない。百歩譲ってそれが過小評価であったとしても、阿部美咲を除くESSメンバー総出の機会に行う合理性に欠ける。関わる人間が多くなるほど胸中を悟られる可能性は高まるし、探りを入れるだけなら、一人、あるいは、他の誰かと、にしても親友の小野寺楓子か、普段行動を伴にしている夏越雄一郎のみを連れ立てば、それでこと足りるだろう。
現に、柴原教諭の美彌に対する『セクハラ問題密告』の際も、彼女一人きりで自分に声を掛けに来たのだから⋯⋯。
「う~ん、ハスミン。やっぱり厳しいかなあ⋯⋯?」
楓子たちが惜しそうに、蓮実に再度のお願いをしてくる。
そこまで思案した上でその言葉を聞いたとき、ふと蓮実は、自分が『違和感の正体』という得体のしれない概念にかこつけて、独り相撲を取っているだけなのでは、との念を強くした。
「オッカムの剃刀⋯⋯だな」
確たる証拠もないのに、妙にひねった捉え方をするものではない。
改めて、現状をニュートラルに分析出来るよう、今度は正の方向からも解釈を試みる。
冷静に考えれば、この申し出を断る方が、今後を踏まえたときの損失が大きい。さしたる予定もない中で、勉学に関する要望を斥けたとなると、彼女たちの『生徒思いの理想の教師』像にヒビが入ることは間違いないだろう。
それに、もっとも気になった片桐怜花の存在と、ここ最近の立ち振る舞いについても、彼女自身が述べてくれたように、来年に受験を控えているがための、学業に対する真剣度が増した故の行動、と捉えれば、おかしなところはない。
であれば、自分の昼休みの空きを狙って提案をしてきたことも、首肯できる。去来川舞が先ほど説明してくれたように、阿部美咲と相性がよろしくない彼女のこと。直接担任である自分から教えは請いたいが、最低限、周囲と波風は立てたくないという、負い目のような感情が、今まで彼女が自分に見せてきた『怖れ』の正体なのかもしれない。
それに、忘れてはいけない一番重要な要素は⋯⋯。
――問題なし。
蓮実のコンピューターが解を弾き出す。
「厳しい、だなんてとんでもない! ただ、あまりにも急だったから、びっくりしてただけだよ。――OK! Congratulations on your enthusiasm,Miss Katagiri! Welcome to English Speaking Society Club! 片桐、よろしくな!」
朗らかな笑顔を怜花に向けた蓮実が、彼女の頭を『くしゃくしゃ』してやると、歓声が湧いた。
「やったぁ! ハスミン、ありがと~!」
「良かったね、怜花! 昼休みの間だけだけど、楽しんでいこっ!」
怜花は紅潮気味の顔を、周りのESSメンバーに向けながら、曖昧な笑みを浮かべていた。
今しがた『魔手』によって無造作に撫でつけられた自分の頭の感覚に戦慄しながら。
「よし、それじゃ、俺は教材の準備をしていくから。お前たちは先に部室に向かっててくれ」
蓮実がそう言うと、一同は元気に返事をして、勝手知ったるESS部室に向けて歩き出した。
その最後尾にいた怜花が、職員室から辞去する際、蓮実と目が合う。
相変わらず、屈託のない表情を浮かべている『怪物』の視線に居たたまれない気持ちになった彼女が、消え入りそうな声で「よろしくお願いします」と漏らすと、蓮実は、フッ、と頬を緩めて手を振ってきた。
怜花は頭を一度下げると、駆け足で一同の後を追っていった。
蓮実はESS部室に向かう道すがら、望外の収穫にほくそ笑んでいた。
もしかしたら、当初に感じていた『違和感の正体』とは、填まることをまだか、まだか、と望んでいるジグソー・パズルの最後のピースを待っている感覚のようなものだったのかもしれない。
安原美彌やESSメンバーのように、積極的に媚態を示すことで、自分に親しみをアピールしてくる子たちも良いが、好感を持っているが故に、敢えてその対象を畏怖し、避けるような仕草をする女子から陰で想われ続けるのも、また、おつなように感じる。
⋯⋯そうか。あの、自分をひどく怖れているような態度は、そういうことだったのか。
当座の疑問の一つに、満足がいく――それも、最高この上ない――回答を得ることができた。これで、クラス分けの際に生じた苦労も報われるというものだ。
――片桐怜花。
彼女もまた、二年四組に招待を受けた、選りすぐりの美少女たちの内の一人なのだから⋯⋯。
「⋯⋯よっし、こんなもんか。時間は食っちまったが、後は放課後まで待てば余裕だろ」
昼休み開始から四十分ほど過ぎた頃。圭介は、ベニヤ板で作った囲いの中に流し込まれた「石膏水」を眺めつつ、顔の汗を拭った。
作業に入る前にスマートフォンのカメラで上方、斜めと角度を変えて、更に周囲の様相も把握できるように、蓮実の足跡の撮影は済ませてある。
日曜日を利用して、林の土壌とほぼ同じ地質の近場の山林に、雄一郎とともに出向いて四半日ほど実験に費やした甲斐もあって、足元の白濁とした液体の表面は、早くも一目して明らかな硬化を始めていた。
これなら、完全に固まればゲソ痕として充分に確保も出来るだろう。もちろん、犯罪証拠となる現場の鋳型を無許可で取得、など法に触れる行為なのだが。
まあ、虎穴に入らずんば虎子を得ず。渋谷のストリート・ギャング数人と、ナイフ片手に渡り合う蛮行に比べればなんのその、だ。
最悪、たまたま林に出向いたときに、お気に入りの型番の靴跡を目にして、つい型取りしたくなった、とでも言えばいいだろう。
それに、この後のシナリオでは、自分ではない他の、よく知る誰かさんがこの作業を行った、という話になるのだから。
圭介は心の中で嘯く。
ただ、『足跡』以上に決定打を得られる証拠能力を持つ、『竹棒』がまだ見つかっていない。
凛太朗の推測では、真田の車のアクセルを押したその棒も、蓮実が逃走時に林の中に投げ捨てていった可能性が高い、とのことだったのだが。
木の葉は森に隠せ⋯⋯か。確かに同じ植物質の物体とはいえ、木の枝や落ち葉などとはあからさまに形状の違うそれを、林の中に放置していくものだろうか。
とはいえ、足跡を見つけて以降は型取り作業に熱中していたため、固まった石膏を回収する際に、周辺を隈なく探せばひょっこりと出てきそうな気もする。残り時間も少ないため、この場は雄一郎、怜花に一報を入れた後、速やかに立ち去るのが無難だ。
そう考え、ボンサックバックに荷物を詰め始めた、そのとき。
――カサッ。
⋯⋯!
不意に、枯れ葉が一片、何者かによって踏みつけられたような音が響く。
――カサッ⋯⋯カサカサッ。
⋯⋯。
圭介は、明らかにこちらに向かって歩を進めてくる、その正体をすぐには確かめようとせず、静かに身を強張らせ、バックに手を突っ込み屈んだままの姿勢で静止している。
――ガササッ!
⋯⋯ッ!
――バッ!!
素早く振り返ると同時にバックから引き抜いた、バタフライ・ナイフの鋭利な切っ先を、その音の主に対して向けた。
⋯⋯ミャオ。
ナイフと同じく差し出した鋭い視線の少し下に、あどけない顔をした仔猫の姿がある。
なんの悪びれた様子もないそいつは、半ば、圭介の鬼気迫る形相をからかうような素振りで、喉を鳴らしながらくつろいだ雰囲気を見せつけてきた。
しばし、ぽかん、とした間が林の中に現れる。
「⋯⋯フゥ~ッ。びびらせんな、っつーの。ったく」
思わず失笑した後、圭介はくるり、とナイフを翻して刃をしまい、それに代えてスマートフォンを手に取った。
