毛利徳山藩ものがたり -3ページ目

毛利徳山藩ものがたり

日本史の中であのガラパゴス諸島のように
知られざる歴史を持つ毛利徳山毛利藩の歴史
を語ります・・・

 ● 毛利元就の涙


  日本史のガラパゴス・毛利徳山藩の歴史を語るみさえです。

  今回のタイトル、なんで毛利元就が泣くの?

  そのわけはこれから話すふたりの兄弟が原因なのです。

  毛利徳山藩の初代藩主就隆と徳山藩の由来にについて

  語ってきました。

毛利徳山藩の誕生その一

毛利徳山藩の誕生その二

毛利就隆が名付けたまち・徳山

毛利就隆が暮らした館はいま


  就隆には七つ年上の兄がいました。

  それが秀就(ひでなり)です  。

  彼は父輝元隠居後の毛利家の本家を継ぎ、萩の城に住んでいました。


  実はこのふたり、仲がとっても悪かったのだと下の本では語られています。



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  どうして、兄弟の仲が悪くなったのでしょう・・・?

  ひとつはふたりの父輝元に原因があったようです。

 輝元はなかなか男子に恵まれず、長男秀就が生まれたのは
 彼が43歳の時でした。

 さらに就隆が生まれたのは輝元50歳。

 長寿の現代ならともかく、はるかに寿命の短い時代です。
 輝元の喜びはわたしたちが考える以上だったでしょうね。

 ところが二人目の男子誕生に喜ぶ輝元へ思わぬ災いが
 降りかかります。

 秀就・就隆ふたりの母である側室二の丸殿が亡くなって
しまうのです・・・

 このとき、就隆はまだ三歳に満たない幼子でした。
 
 現代でもあることですが母を幼くして失った次男は
 父親の輝元の愛情を一心に受けて育つことになるのです。

 母を喪い、辛いのは秀就も同じでした。

 しかし、ご存知のように関が原の戦いで破れた輝元は
 領地をほとんど奪われ、家康から隠居を命じられていました。

 その結果、長男秀就が毛利家の跡を継ぎ、六歳で藩主と
 なったのですが当主は江戸の屋敷で暮らす時間が多くなり
 弟の就隆は萩城で父輝元とともに元服まで暮らします。

この環境と父の待遇の違いがふたりの兄弟の絆を弱めてしまったかも
しれません・・・

 さらに、元服した就隆は削られた毛利家の領地の中から
 貴重な三万石を父輝元から送られます。

 当時の毛利家は120万石時代の家臣団を36万石
(表高。実高は52万5000石)で養う貧乏借金国状態。

 毛利家としては無駄な出費は避けたいはずです。

 しかし、輝元は就隆の願いを通し兄秀就に徳山支藩三万石を
 譲れと命令したのでした。

(父上はなぜに就隆にああも甘いのか・・・)

 (就隆も就隆じゃ、わしの苦衷をわかれば父上に領地の無心
 などできぬはず)

 秀就のこころには弟への鬱憤と不満が滓のように積もって
 いき後の義絶へとつながってしまうのです。
 
 さて・・・

 毛利元就についての知識があるあなたなら“三本の矢”の故事に
ついてはご存知でしょう。

 毛利元就が1557年に3人の子(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)に
 書いた文書三子教訓状(さんしきょうくんじょう)。

この三子教訓状(さんしきょうくんじょう)は、これを含む
「毛利家文書」ともに重要文化財に指定、現在は山口県防府市の
毛利博物館に収蔵されています。


これを元に後世に語り継がれている三本の矢の教えは
とても有名ですよね。

念のために意味を書いておきます。

「1本の矢では簡単に折れるが、3本纏めると容易に
折れないので3人共々結束すること」

(かぎカッコ内の言葉はウィキペディア・三子教訓状(さんしきょうくんじょう)
の項より引用)

 戦国時代とは大名家の相克の時代だとある方もが語っていますが
その中にあって、骨肉の争いを起こさず、自らは権謀術数の限りを尽くし
毛利家の繁栄の礎を作った毛利元就。

 しかし、その子孫たちは皮肉にも身内同士の争いを起こし、毛利家を
揺るがす危機に陥る運命を辿るのでした・・・。

 

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 ● 毛利就隆たちが暮らした館は今・・・

 日本史のガラパゴス毛利徳山藩歴史語り人・みさえです。

 幕府に移転の願いを申し出て二年後、ようやく就隆は徳山に
 居をかまえることになりました。
 
 彼が建てた館が下にあります。

 
$毛利徳山藩ものがたり・初代就隆(なりたか)から九代元蕃(もとみつ)秘話-111019_160039.jpg

 まあ、これがお殿さまの館なの?

 なんだか、城っぽくなくてモダンね。

 ・・・すみません、この建物は当時のままではありません。

 この建物は周南市にある周南市文化会館です。

 就隆はかつてこの場所に館を建てて暮らしていたのです。
 
 就隆もはるか未来に自分の館跡でコンサートや演劇の公演が開かれる
なんて思いもよらなかったでしょう。

 さて、今回のお話を読んでいて就隆は殿様なのになぜ、お城を
建てなかったの?と思われませんでしたか?

 次回はその疑問にお答えします。お楽しみに!

 ちよっとひとこと

 参考にした本

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● 毛利就隆が名付けたまち・徳山


 日本史のガラパゴス・毛利徳山藩歴史語り人・みさえです。

 今日は毛利徳山藩初代藩主毛利就隆が名付けたまち・徳山に
 ついてお話していきますね。

 いったんは下松(現在の山口県下松市御屋敷山あたりと伝えられています)

 居を定めた就隆でしたが山陽道から離れていることや下松が
 領地の東部にあることを理由に移転を決めます。

 彼が新しい拠点に目を付けたのが野下庄の地です。

 瀬戸内海の海に面した平野を持ち、気候温暖なこの地を就隆は
 気に入り、幕府に移転の願いを申し出ます。

 その願いが認められたのは二年後でした。

 1650年(慶安三年)就隆は野下庄に移転。

 そのとき、地名を野下庄から徳山に改めます。

 これが「徳山藩」の始まりでした。

 なぜ、「徳山」なのか

 その理由は諸説あります。

 興元寺の山号「万徳山」に由来するという説と徳政で諸国に名を
 とどろかせていた阿波徳島や備前岡山の両国に就隆があやかった・・・
 という説が有力です。

 ちなみに徳山の名はその後も徳山市として使われ続けていましたが
 合併により徳山市、新南陽市、熊毛町、鹿野町が平成15年
 4月21日から周南市と名を変えてしまったため、今は市政から
 その名は消えてしまいました。

 次回は就隆が館を構えた場所についてのエピソードについて。

 お楽しみに!

 ちよっとひとこと

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