日本史のガラパゴス・毛利徳山藩の歴史を語るみさえです。
今回のタイトル、なんで毛利元就が泣くの?
そのわけはこれから話すふたりの兄弟が原因なのです。
毛利徳山藩の初代藩主就隆と徳山藩の由来にについて
語ってきました。
毛利徳山藩の誕生その一
毛利徳山藩の誕生その二
毛利就隆が名付けたまち・徳山
毛利就隆が暮らした館はいま
就隆には七つ年上の兄がいました。
それが秀就(ひでなり)です 。
彼は父輝元隠居後の毛利家の本家を継ぎ、萩の城に住んでいました。
実はこのふたり、仲がとっても悪かったのだと下の本では語られています。
武名埋り候とも―周防徳山藩秘史/西岡 まさ子

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どうして、兄弟の仲が悪くなったのでしょう・・・?
ひとつはふたりの父輝元に原因があったようです。
輝元はなかなか男子に恵まれず、長男秀就が生まれたのは
彼が43歳の時でした。
さらに就隆が生まれたのは輝元50歳。
長寿の現代ならともかく、はるかに寿命の短い時代です。
輝元の喜びはわたしたちが考える以上だったでしょうね。
ところが二人目の男子誕生に喜ぶ輝元へ思わぬ災いが
降りかかります。
秀就・就隆ふたりの母である側室二の丸殿が亡くなって
しまうのです・・・
このとき、就隆はまだ三歳に満たない幼子でした。
現代でもあることですが母を幼くして失った次男は
父親の輝元の愛情を一心に受けて育つことになるのです。
母を喪い、辛いのは秀就も同じでした。
しかし、ご存知のように関が原の戦いで破れた輝元は
領地をほとんど奪われ、家康から隠居を命じられていました。
その結果、長男秀就が毛利家の跡を継ぎ、六歳で藩主と
なったのですが当主は江戸の屋敷で暮らす時間が多くなり
弟の就隆は萩城で父輝元とともに元服まで暮らします。
この環境と父の待遇の違いがふたりの兄弟の絆を弱めてしまったかも
しれません・・・
さらに、元服した就隆は削られた毛利家の領地の中から
貴重な三万石を父輝元から送られます。
当時の毛利家は120万石時代の家臣団を36万石
(表高。実高は52万5000石)で養う貧乏借金国状態。
毛利家としては無駄な出費は避けたいはずです。
しかし、輝元は就隆の願いを通し兄秀就に徳山支藩三万石を
譲れと命令したのでした。
(父上はなぜに就隆にああも甘いのか・・・)
(就隆も就隆じゃ、わしの苦衷をわかれば父上に領地の無心
などできぬはず)
秀就のこころには弟への鬱憤と不満が滓のように積もって
いき後の義絶へとつながってしまうのです。
さて・・・
毛利元就についての知識があるあなたなら“三本の矢”の故事に
ついてはご存知でしょう。
毛利元就が1557年に3人の子(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)に
書いた文書三子教訓状(さんしきょうくんじょう)。
この三子教訓状(さんしきょうくんじょう)は、これを含む
「毛利家文書」ともに重要文化財に指定、現在は山口県防府市の
毛利博物館に収蔵されています。
これを元に後世に語り継がれている三本の矢の教えは
とても有名ですよね。
念のために意味を書いておきます。
「1本の矢では簡単に折れるが、3本纏めると容易に
折れないので3人共々結束すること」
(かぎカッコ内の言葉はウィキペディア・三子教訓状(さんしきょうくんじょう)
の項より引用)
戦国時代とは大名家の相克の時代だとある方もが語っていますが
その中にあって、骨肉の争いを起こさず、自らは権謀術数の限りを尽くし
毛利家の繁栄の礎を作った毛利元就。
しかし、その子孫たちは皮肉にも身内同士の争いを起こし、毛利家を
揺るがす危機に陥る運命を辿るのでした・・・。
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