日本史のガラパゴス・毛利徳山藩歴史語り人・みさえです。
毛利徳山藩の初代藩主は毛利就隆(なりたか)。
長州藩主秀就は彼の兄であり共に毛利元就のひ孫にあたります。
父は毛利元就の孫の輝元。
ではなぜ、彼が徳山藩の初代藩主になったのでしようか?
それにはあの関が原の戦いが大きく影響を与えているのです。
関が原の戦いで敗戦・中国地方の支配者から防長二州へ
歴史好きの皆さんによく知られている関が原の戦いで毛利家は
西軍の将であり、当主輝元は総大将として大阪城に入って
いたのです。
戦の後、毛利家はかろうじて御家取り潰しは免れますが
かわりにこれまで支配していた領土百二十万石は没収され、
防長二州の領土のみを与えられます。
この悔しさと生活の困窮ははその後、徳川幕府への復讐心へと
形を変えて毛利家とその家中の者へと代々伝えられ、のちに
起こる明治維新へのマグマになるのです。
さて、こうしてやむを得ず領土を減らされた当主輝元は本拠地を
山陰の萩へ移し城を築きます。
そして長男の秀就(ひでなり)を自分の跡取りに定め、次男の
就隆(なりたか)には1617年(元和三年)に都濃郡一帯
三万石を分地しました。
その後、就隆(なりたか)は1632年、下松に住居を定めました。
と、ここまで読まれた読者のあなたは
あれっ?徳山が出てこないと思われたかもしれません。
そうなんです。就隆(なりたか)は最初から徳山へ住んでは
いなかったのです。
この続きは次回にて。
お楽しみに!
ちよっとひとこと
参考にした本
武名埋り候とも―周防徳山藩秘史/西岡 まさ子

¥1,575
Amazon.co.jp
参加しています

にほんブログ村
にほんブログ村

にほんブログ村
