毛利徳山藩ものがたり -4ページ目

毛利徳山藩ものがたり

日本史の中であのガラパゴス諸島のように
知られざる歴史を持つ毛利徳山毛利藩の歴史
を語ります・・・

 ● 毛利徳山藩の誕生・その二

 日本史のガラパゴス・毛利徳山藩歴史語り人・みさえです。

 毛利徳山藩の初代藩主は毛利就隆(なりたか)。

 長州藩主秀就は彼の兄であり共に毛利元就のひ孫にあたります。

 父は毛利元就の孫の輝元。

 ではなぜ、彼が徳山藩の初代藩主になったのでしようか?

 それにはあの関が原の戦いが大きく影響を与えているのです。

 関が原の戦いで敗戦・中国地方の支配者から防長二州へ

 歴史好きの皆さんによく知られている関が原の戦いで毛利家は

 西軍の将であり、当主輝元は総大将として大阪城に入って
 いたのです。

 戦の後、毛利家はかろうじて御家取り潰しは免れますが
 かわりにこれまで支配していた領土百二十万石は没収され、
 防長二州の領土のみを与えられます。

 この悔しさと生活の困窮ははその後、徳川幕府への復讐心へと 
 形を変えて毛利家とその家中の者へと代々伝えられ、のちに
 起こる明治維新へのマグマになるのです。

 さて、こうしてやむを得ず領土を減らされた当主輝元は本拠地を
 山陰の萩へ移し城を築きます。

 そして長男の秀就(ひでなり)を自分の跡取りに定め、次男の
 就隆(なりたか)には1617年(元和三年)に都濃郡一帯
 三万石を分地しました。
 
 その後、就隆(なりたか)は1632年、下松に住居を定めました。

 と、ここまで読まれた読者のあなたは
 
 あれっ?徳山が出てこないと思われたかもしれません。

 そうなんです。就隆(なりたか)は最初から徳山へ住んでは
いなかったのです。

 この続きは次回にて。

 お楽しみに!

 ちよっとひとこと

 参考にした本

武名埋り候とも―周防徳山藩秘史/西岡 まさ子

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 ● 毛利徳山藩の誕生その一

日本史のガラパゴス・毛利徳山藩の歴史語り人みさえです。

読者の皆さんの中で毛利元就は知っていても毛利徳山藩のことを
知っている人はほとんどいないと思います。

無理もありません。

そもそも、毛利家は信長・秀吉・家康の三人のように大河ドラマ
でたびたび取り上げられるなんてありませんし歴史・時代小説の
中でも脇役扱いが多いと思います。

日本史の中で主役よりは地味な脇役の座が定着しているのが
毛利元就とその子孫たちだと思います。

しかし、その地味な脇役のはずの毛利家、それも分家の徳山藩
には歴史好きなあなたの知らない逸話や人物たちが数々いるの
です。

次回からは本格的に毛利元就の曾孫の就隆と徳山藩誕生の
知られざる物語を
語っていきますのでお楽しみに。

ちょっとひとこと



大河ドラマで毛利元就を演じたのは中村橋之助さんでした。
1997年放送

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 ●その後の広家と秀元(秀元篇・完) 
 
 日本史のガラパゴス・毛利徳山藩の歴史語り人みさえです。

 三回に亘って続けてきましたその後の秀元物語、いよいよ今回で
 最終回でございます。

 その後の秀元物語前々回はこちら


その後の秀元物語前回はこちら

 さて、輝元隠居後後を継いだ当主秀就の後見役として長州藩の
 内政・外政にその手腕をふるってきた秀元でしたが秀就が成人し
 その父輝元が73歳で他界した頃から二人の間に軋轢が生まれます。

 対立の原因は秀元の嫡男光広と秀就の娘の縁談を秀就が反故に
 したことや秀就が壮年になっても分家の当主である秀元が本家の
 萩本藩の政に介入してくるのを就はもちろん藩内からも反対の
 声が上がってきたのです。

 この叔父甥骨肉の争いのいきさつは下の本に詳しく書かれて
 います。


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これって現代でもありうる話ですよね。

地方の中小企業が社長のミスで大手企業に吸収合併縮小の
憂き目に合う。

代わりの跡継ぎの社長はまだ幼く会社の経営が危ぶまれる中、親戚で
子会社の辣腕社長が経営の舵を取って会社の経営を安定させた・・・

実際、関ヶ原後に数多くの大名たちが家康・秀忠たちによって改易の
憂き目に遭わされるのですが毛利家が領地を減らされこそすれ家ごと
改易されなかったのは秀元の外交の手腕に因るところが大きかったと
私は思うのです。

それほどの力量を持つ秀元ですが彼の権力欲もまた相当の強さを
兼ね備えていました。

秀就によって萩本藩の政治への介入を断られた秀元は今度は
秀就の弟で同じく分家の徳山藩藩主の毛利就隆を誘い長州藩
からの独立を目論むのです!

三本の矢の誓いは何処...。もはや渡る世間は鬼ばかり
状態の毛利家ですね(w_-;


結局、この企ては未遂に終わります。

叔父と実弟の自分と宗家を軽んじた振る舞いに激怒した秀就は
秀元を処罰しようとしたのですが秀元は3代将軍家光の御伽衆
として傍に仕えていたので逆に幕府からお互い仲良くしなさいと仲裁
される始末。

このあたり、強かで権謀術数に長けた秀元の面目躍如といった
ところですね。

秀元の晩年は長府ではなく江戸に住み家光の御伽衆として
過ごしました。

慶安3年(1650年)閏10月3日、江戸で死去。享年72。

広家と比べると最後まで脚光を浴び続けた人生であった
ような気がします。

次回からはいよいよ毛利徳山藩の物語が始まります。

ちょっとひとこと

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不和は深刻化し、寛永8年10月5日に後見役を辞任、姻戚関係にある永井尚政に打診して本家とは別個に朱印状を賜ろうとしたり、寛永11年(1634年)には江戸城普請の手伝いを拒絶するなど秀就に反抗的な振る舞いを見せるようになった。

慶安3年(1650年)閏10月3日、江戸で死去。享年72。光広が長府藩を継いだ。また、次男の元知は後に分与され清末藩を立藩した。