前回は縄文時代の古代史を少し考察しました。


縄文後期になり、地球の寒冷化に伴って東北地方の日高見国の食糧事情が悪化したことに伴い人々は南下し、西日本に移動しました。


記紀では神武天皇に敗れ義弟の饒速日尊に切られた長髄彦は出雲に戻り後に東北に逃げ日高見国を作ったとありますが私は少し違うと思います。


既に集落があった縄文出雲族の地なのである意味で一族でしょう。


ここから出雲口伝は出雲メインの古事記とはまったく違う展開になります。

出雲の古代史は↑で少し考察していますが再度要点だけ書いておきます。


縄文出雲族はインドから渡来したクナトの一族




東西王家があり富家と神戸臣家に分かれ主王の大名持と副王の少名彦という役職を交互に分担統治した。

縄文出雲族は争いはせずに婚姻により集落毎の連合帯であった。

秦の始皇帝に不老不死の薬を持って帰るといい徐福が渡来計画を実行する。


配下の天穂日(出雲国造の祖)を先発隊とし出雲へ渡来させ、徐福渡来の受け入れ準備をさせる。

天穂日は大陸の技術(機織.養蚕などを持ち渡来した一族が後に秦氏となります)で出雲王家の信頼を得て、徐福渡来の許可を得た。


徐福が来日し天火明(ホアカリ)と名乗り、大陸の技術などを出雲族に教えて出雲王家の信頼を得た。

八代目大名持ヤチホコの娘、高照姫👸と結婚した。

徐福の真の目的は不老不死の薬ではなく、出雲の王となることだった。


徐福は出雲族が信仰する龍蛇信仰、サイノカミ信仰を否定し道教の教えを解きますが普及しませんでした。

事を急ぎすぎた徐福は大名持と少名彦を拉致監禁し殺してしまいました。

出雲族の反撃を恐れた徐福は秦に戻りました。

出雲族は争うことはせずにアジスキタカヒコネは下照姫と共にヤマトへ渡り、タケミナカは母方の古志にいたので信越に第二出雲王家を作りました。

出雲には徐福の配下の天穂日が出雲国造となり現在もその子孫が出雲大社の社家としています。


これが古事記、日本書紀で言われる国譲りです。


ここで出雲と言えば…


そう!スサノオですよね…


感が良い人は分かったと思うニヤリ



徐福=スサノオではないのか??


古事記は出雲中心の古典ですが徐福の存在を隠しスサノオとした!?


出雲族はインドドラビィタ族の末裔で龍蛇信仰🐍ですが太陽☀️信仰でもありました。


徐福の悪業を古事記ではスサノオの悪業としたのではないのか??



徐福は秦に帰国し始皇帝に報告をします。


蓬莱には不老不死の薬がありましたが大きなワニが居て上陸が出来ない。


さらに時間が掛かるとして男女の童子や機織などの職工などおよそ3,000人渡来する必要があると報告すると始皇帝は喜び🤩用意させ徐福一行は再び渡来しました。



一行は北九州(佐賀平野、吉野ヶ里遺跡周辺)に上陸しました。


出雲王家を簒奪した天穂日は出雲国造となり支配していました。


分家の宗像家は北九州を治めていました。


徐福は二度目の渡来では饒速日ニギハヤヒと名乗りました。


徐福こと饒速日は宗像の娘(宗像三女神)の市杵島姫と結婚します。


後に物部氏、海部氏などの系統になります。


海部氏は三丹(丹後、丹波、但馬)の王となり、物部氏は北九州の武装国家を作りました。


物部氏の集落が吉野ヶ里遺跡です。


ちなみに物部とは徐福一行のもののふからもののべとなったとも言われいます。


ここで整理すると…


徐福の一度目の渡来では天火明ホアカリ

二度目の渡来では
饒速日ニギハヤヒ


ニギハヤヒの別名

天照国照彦天火明櫛玉饒速日命


匂いませんか?😁