ここ数日、危険を遠ざけることと、危険を扱うことの違いについて考えてきた。
刃物や薬、情報に至るまで、いずれも「正しく扱う」ことの重要性は疑いない。
そして、その正しさの背後にあるものへと目を向ける必要も、以前より明瞭になってきた。
それでもなお残る感覚がある。
私は恐らく、子どもに対して「やめなさい」と言ってしまうのではないか、という予感である。
私の子が、刃物に手を伸ばしたとき。
あるいは、強い言葉が行き交う情報に触れようとしたとき。
その場で私は、果たして悠長に「扱い方」を教えようとするだろうか。
きっと、まず制止するだろう。
危ないから、いけないからと、理由を短く切り詰めて。
そこにあるのは、理解を促そうとする態度というより、衝動的に遠ざけようとする反応である。
これまで述べてきたことと、どこか食い違っている。
だが、そのずれを否定しきることもまた、できない。
危険に対処する力を育てることと、目の前の危険から守ること。
この二つは、しばしば同時には成り立たない。
理解を待つあいだに起こりうる事態を思えば、即座に介入するという選択は、ある意味で避けがたいことでもある。
そう考えるとき、「禁じる」という行為は、単なる思考停止ではなく、時間の制約のなかで選び取られる一つの判断でもあるのだろう。
では、どこまで禁じ、どこから委ねるのか。
その線引きは、やはり容易には定まらない。
理想として思い描く「理解して扱う」という姿と、現実の場面で咄嗟に取る行動とのあいだには、思いのほか大きな隔たりがある。
その隔たりを前にして、なお私は、どのように子どもと向き合うべきなのかを考え続けている。
まだ理想と現実の間で、歪に蹲っている。