ここのところ、豊かな時間を過ごしている。
自分と向き合う時間である。

自分の中の教育に対する思い、信念をあらためて読み解き、ほぐした糸を紡ぎ直そうとしている。
これまでは半ば無自覚のまま教育と向き合ってきたが、第一子を迎えたいま、人を育てるという営みを、避けて通ることができなくなった。


ブログでは、危険を遠ざけることと、危険を扱うことについて考えてきた。
刃物や遊具、SNSに蔓延る情報に至るまで、形の異なる対象に向き合いながらも、問題のあり方はどこか似通っている。

ナイフは、使い方を誤れば人を傷つける。
遊具は、過度に制限すれば自由を奪い、放てば怪我につながる。
情報は、見えないままに人を動かし、ときに誤らせる。
そして、かつて禁じられた私の趣味もまた、誰かにとっては負担となりえた。

いずれも、ただ遠ざければよいというものではない。
同時に、無条件に委ねられるものでもない。

その狭間で、私はどう振る舞うのか。



私は、何事もまず禁じない親でいたい。
だが、それでも禁じるべき場面は、おそらく避けられない。
だから私は、禁じることを禁じない。

そのときには、理由を添えたい。
なぜそれがいけないのか。
なぜいまは止めるのか。
十分に伝わらないとしても、その言葉はどこかに残るのではないかと思う。

同時に、扱い方を教えたいとも思う。
ただしそれは、一度の説明で足りるものではない。
状況やタイミング、言葉の選び方、そして日々のやり取りの中で、少しずつ形になっていくものなのだろう。

教えることは、いずれ手放すことを含んでいる。
だが、その手放し方に確かな手順があるわけではない。
どこまで関わり、どの段階で委ねるのか、その判断はいまも揺れている。


振り返れば、禁じることと教えることを、どこか対立するもののように捉えてきた。
しかし実際には、その二つは分かたれているのではなく、同一線上で行き来しているのかもしれない。

禁じることで守られるものがある。
教えることで開かれるものがある。
たとえば薬は、その両方の性質を併せ持っている。
厳密に制限されながら、同時に正しく扱われることが求められている。

それでも私は、できるだけ禁じることを減らし、教えることを増やしていきたいと思う。
そうしながら、いずれは手放すことを引き受けていくしかないのだろう。

どのように関わり、どのように手を離すのか。
その問いに、明確な答えはない。



誰かが言った。
「噛み合わない言葉の色が 風に消えるのを 確かめるように素直に」

ありのままと偶然のなかで、ときに我が子とぶつかることもあるだろう。
その営みのなかで、何かを手渡すことができることを、願っている。