子どもが産まれてみると、これまでと同じ町の景色も、どこか違って見える。
この道路には大きな段差がある。この草むらは思いのほか背が高い。
そして、公園は――遊具が減っているように感じられる。
かつて当たり前のようにあったもののいくつかは、いつの間にか姿を消している。
私が子どもの頃、学校や公園には様々な遊具があった。
ジャングルジム、登り棒、鉄棒。
加えて、今ではほとんど見かけなくなった回転式の遊具もあったように思う。
危なさは確かにあった。遠心力に振られ、擦りむいた記憶もある。
それでも、あの場所にはある種の自由があった。
どこまで回すか、どの程度まで試すかを、自分で決める余地が残されていた。
近年は、安全への配慮が強く求められている。
危険を取り除くこと自体は否定されるべきではない。
しかし思うに、それが過剰に傾いたときには、別種の影響を生むのではないか。
大学で学生と接していると、その兆しは思わぬかたちで現れる。
正答の定まった課題には、彼らはよく応じる。
手堅く、丁寧に、期待される水準に達する解答を返してくる。
一方で、明確な答えのない問い、論述や記述になると、筆が止まる場面にしばしば出会う。
誤りを避けようとする姿勢は理解できる。
しかしそれが、「間違えないこと」を最優先に据える態度へと変わるとき、思考の伸びやかさは失われてはいないだろうか。
転ばないようにすることと、転んだときにどう振る舞うかを知ることは、同じではない。
前者は確かに安全をもたらすが、後者は、より広い意味での耐性を育てる。
危険を取り除くことは、子どもを守る一つの方法である。
だがそれが、危険に触れる機会そのものを奪うのであれば、その先に残るのは、脆く、どこか頼りない安全なのかもしれない。