自分というギフトを生きる  君塚由佳

自分というギフトを生きる  君塚由佳

お金のこと 仕事のこと 暮らしのこと
豊かに幸せに 最高の人生を創りましょ

怒れるBBAが世界を創る

”かなしみは、人間の根本的な感情である”

そう言ったのは、詩人・谷川俊太郎だったか。正確な言葉はうろ覚えである。冷蔵庫のプリンは忘れないのに、偉大な詩人の言葉は「なんかそんな感じ」で済ませる。人間とは、つくづく都合のいい生き物である(遠い目)。

でも私は、この感覚がとても好きだ。

悲しみは、弱さではない。悲しめるということは、何かを大切にしていたということだ。誰かを愛していた。信じていた。期待していた。わかってほしかった。だから悲しい。

つまり悲しみとは、心がまだ干物になっていない証拠である。ちゃんと水分がある。カラカラの高野豆腐ではない。水で戻せば、まだ味噌汁に入れる。

そして私は思うのです。怒りも同じだと。

人間、怒りがなくなったら終わりだ。怒りは、ただの乱暴な感情ではない。変革のエネルギーそのものだ。人間の創造力の根源だ。

「これはおかしい」
「こんな扱いをされる筋合いはない」
「この世界、ちょっと雑につくられすぎていないか」
「誰だ設計者、出てこい。菓子折り持って土下座しろ」

この腹の底から湧き上がる熱が、世界を少しずつ動かしてきたのだと思う。怒りがなければ、誰も声を上げない。何も変わらない。文章も、芸術も、革命も、たぶん生まれない。

怒りがなければ、私は今日もおとなしく洗濯物をたたみながら、「まあ人生こんなもんよね」と言っていた。

いや、洗濯物はたたむ。でも、心までたたまれてたまるか。

だいたい、仏像だって怒り散らしている。不動明王なんて、完全に「話を聞かんかい」の顔である。ありがたいけど、町内会にいたらちょっと怖い。

あの怒りは、人を壊すための怒りではなく、目を覚まさせるための怒りだ。ぬるい自己憐憫に浸かっている背中を、「そこ、温泉ちゃうぞ。沼やぞ!!」と引っぱり上げる怒りだ。

怒りは、魂の火災報知器である。うるさい。かなりうるさい。でも鳴らなかったら終わりだ。家が燃えているのに、「近所迷惑になるから静かに燃えましょう」なんて言っている場合ではない。逃げろ。絶叫しろ。水をぶちまけろ。なんなら裏のドブ水でいいから。

でも私たちは、この怒りをずいぶん長いあいだ封じ込めるように自分たちを訓練してきた。

相手だって悪気はないのだから許してあげなさい。わかってあげられて、仲直りできる人でいなさい。大多数に交わり、空気を読みなさい。我慢できることが大人になるということです。

怒る女は怖い。

怒る母はみっともない。

怒る妻は面倒くさい。

怒るおばさんは老害。

はい、出ました。便利な言葉、老害。この二文字の雑さよ。

もちろん、本当に迷惑な人はいる。「俺の若い頃はな」と始まった瞬間、こちらの寿命が三分ほど引きちぎれる人。そういう人は、そっと妖怪図鑑に載せておきたい。

でも最近は、ただ年上の人が意見を言っただけで「老害」と呼ばれることもある。否定の言葉や鋭い指摘はハラスメント認定もされやすい。

都合の悪いことを言われた。痛いところを突かれた。見ないふりをしていた矛盾を指摘された。そのときに「老害」とラベルを貼れば、相手の言葉を聞かなくて済む。

それ、本当に老害なのか。

ただ都合が悪いだけなのか。

都合のいい置物として黙らされるくらいなら、怒れる老害でいい。かわいげのある沈黙より、扱いにくい正直さのほうが、よほど人間らしい。

変に丸くなって、ニコニコ微笑むだけの「かわいいおばあちゃん的マスコットガール」になるくらいなら、私はもっと扱いにくいBBAでいたい。殺しても死なない老害と、後ろ指をさされる人でいたい。

もちろん、本当に殺してはいけない。比喩である。コンプライアンスという名の見張り番が、こちらをじっと見ている。

でも、そういうことなのだ。

簡単には黙らない。雑に分類させない。都合よく消費されない。

怒りは、自分の境界線が踏まれたときに出る反応だ。

「そこから先は入ってくるな」
「その扱いは嫌だ」
「私は物ではない」
「便利な人間として消費するな」

そういう、心の警備員である。

ただし、怒りの使い方はとっても大事。自分の不機嫌を相手にぶつけるだけなら、それは怒りではなく八つ当たりである。怒り界のパチモンである。

本物の怒りには、悲しみがある。宇宙創世のエネルギーの根源であり、仏教界のレジェンド大日如来が宿す『慈悲』というやつですわ。

わかってもらえなかった悲しみ。大切にされなかった悲しみ。信じたかったのに裏切られた悲しみ。何度も我慢して、それでも届かなかった悲しみ。

怒りは、その悲しみが立ち上がった姿なのだと思う。泣いていた自分が、ある日むくっと起き上がり、

「いや、待てよ。なんで泣いてるばっかりじゃ 何も変わらねエ!!」と言い出す。

これが怒りだ。

つまり怒りは、悲しみの第二形態である。悲しみが進化して怒りになる。そして最終進化で、創造になる。

テレレレッテレー。

あなたの悲しみは怒りに進化した。
あなたの怒りは慈悲によって言葉を覚えた。
あなたの言葉は誰かの心をぶん殴った。

おめでとう。

年齢を重ねると、人は丸くなると言う。たしかに、どうでもいいことに腹を立てなくなる部分はある。それは成熟だ。

でも、なんでもかんでも流せるようになることが成熟ではない。流してはいけないものまで流すようになったら、それはただの排水溝である。

「大人になって世間を知り、やさしくなった」なんて無気力のお上手ないいわけじゃないか。

「若い時みたいになんでも嚙みつく時期は終わった」なんて あきらめるのがうまくなっただけじゃん。

「貴重な体力と気力を重要なものに集中することにした」とは見上げた根性だ。逃げ足早くなったな。

もちろん、全部に噛みつけと言っているのではない。電柱にも、レジ袋にも、天気予報にも怒っていたら、こちらの命が先に削れる。

けれど「怒らない私」を美しい成熟として飾り始めたら危ない。それはただ、自分の中の火を仏壇の線香くらいに小さくしているだけかもしれない。

人生後半の成熟とは、何でも許せる仏になることではない。

許すものと 許さないもの、 変えられないものと 変えるべきタイミングが来たものとを自分で選べるようになることだ。

「これはまあ、いい」
「これはもう、手放そう」
「でも、これは絶対に変わるべきタイミングが来ている」
そうやって、自分の中の基準がはっきりしていく。

だから私は、ただ丸い人になりたいとは思わない。まんまるの人は転がされやすい。私は少し角がほしい。雑に扱おうとした人が「痛っ」となるくらいの鋭利な角がほしい。

それは意地悪の角ではない。
自分をふちどる輪郭だ。

かわいいおばあちゃんにならなくていい。なりたい人はなればいい。でも全員がそこを目指さなくていい。

私は、よくしゃべる不動明王。回覧板を持った閻魔大王。
家庭用サイズの阿修羅。ママチャリで爆走する毘沙門天。
背中に業火、手には老眼鏡。
台所の煮物はコトコト弱火でも、思想は強火で行くぜ。

そんなBBAでいたい。更年期は覚醒期なのだ。

ただし、怒りというやつは扱いがむずかしい。そのまま投げると、だいたい火炎瓶になる。悲しみも同じだ。深いのはいい。でも、いきなり深海に連れていかれると、人は溺れる。

だから、重い話ほど軽い顔で始めたい。ただの雑談みたいに入ってきて、「わかるわかる、あるよね」なんて笑っていたら、気づいたときには、自分の胸の奥に置きっぱなしにしていた感情の前まで連れてこられている。

そんな対話がしたい。

笑いは、怒りを薄めるためのものではない。変化を届けるための乗り物だ。

怒り単体だと戦車みたいになる。でも笑いを乗せると、観光バスになる。

「右手に見えますのが、四十年分の我慢でございます」

「左手に見えますのが、いい人をやりすぎた結果できた心の廃墟でございます」

「この先、急カーブが続きますので、感情のシートベルトをお締めください」

そうやって案内しながら、共に谷底へ連れていく。

ひどい。

でも親切ではある。どんな人にも心からの敬意をもって関わりたいからだ。

感情を殺して丸くなるのではなく、感情を燃やして明るくなる。炎上ではなく、発光である。

扱いやすい人ばかりの世界は、たぶん静かだ。でも、その静けさは本当に平和だろうか。

誰も怒らない世界は、穏やかに見える。でもその下で、誰かが我慢している。誰かが「私さえ黙っていれば」と自分を消している。

そんな平和なら、私は少しうるさいほうがいい。

おかしいことには、おかしいと言いたい。悲しいことには、ちゃんと泣きたい。怒りが湧いたら、その炎と涙で言葉にしたい。そして最後には、関わる人を少し笑わせたい。笑いは生きる力だからだ。

だから、怒れ。

でも、ただ怒るな。

笑わせろ。

悲しめ。

でも、沈みっぱなしになるな。

言葉にしろ。

命の火を持て。

「老害」と言われたら、胸を張ればいい。上等です。こちらは、ただの老害ではないのだ。

悲しみを知り、怒りを燃やし、笑いまで添える、発火型老害です。

今日も元気に、炎上ではなく発光していきましょう。

世界を動かすのは、いつだって少し扱いにくい人間なのだから。

 

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わが家には 毎週、花屋さんが花を配達にくる。今日がその日で 家じゅうが花であふれてる。先週届いた花も 傷んだ部分はどんどん切り落とし 茎が折れてしまった花は水盆にうかべて最後までいっしょにいる。
窓辺の花と田園風景

私は昔・・・というか、けっこう最近まで 花束をもらっても全くうれしくない女だった。

いや、人が自分のために何かを選んでくれたことへの ありがたさはあった。そこまで人でなしではない。たぶん。

でも、花束そのものに対しては、かなり冷めていた。「食べられない植物はいらない」わりと本気でそう思っていた。

今思うと、なんということでしょう。心が完全に業務スーパーである。

花を前にして「きれい」より先に「可食部どこ?」が出てくる。バラを見ても、チューリップを見ても、心の中で成分表示を探している。こういう人間は花屋に行ってはいけない。青果コーナーにしか生息しない。

だって花束は、すぐ枯れる。食べられない。場所を取る。水を替えなきゃいけない。

それなら白菜のほうがいい。白菜は偉い。鍋になる。味噌汁になる。冬場の白菜なんて、もはや家庭内インフラである。

花束より白菜。バラより豚バラ。カスミソウより乾燥わかめ。そんなことを平気で言っていた。

だから今、そのころの自分を思い出すと、助走つけてぶん殴りたくなる。もちろん本当に殴りはしない。大人なので。ただ、胸ぐらくらいはつかみたい。

「おい、昔の私。お前は花束が嫌いだったんじゃない。美しいものを受け取る余裕がなかっただけだろ」そう言ってやりたい。

私は、役に立つものが好きだった。使える。食べられる。お金になる。効率がいい。損をしない。そういうものに安心していた。

逆に、ただきれいなだけのもの。ただうれしいだけのもの。ただその場を明るくするだけのものが怖かった。

花束は、その代表だった。

部屋に置くと、空気が変わる。テーブルの上に一輪あるだけで、昨日まで「とりあえず物を置く場所」だったところが、急に「暮らし」みたいな顔をしだす。

その感じが、私は落ち着かなかった。

花瓶?ありません。水替え?面倒です。感性?在庫切れです。そうやって、花を遠ざけていた。

でも本当は、花を遠ざけていたのではなく、自分の中の柔らかいところを遠ざけていたのだと思う。

きれいなものを見て、きれいだと思うこと。うれしいことを、うれしいと受け取ること。誰かが自分のために選んでくれたものを、素直に抱えること。

それが怖かった。

私はたぶん、長いこと「役に立つ私」でいようとしていたんだと思う。

ちゃんとできる信頼と実績の私。しっかり先読みして気が利く私。ウッカリバカなものに巻き込まれたり損をしない私。忙しい人に迷惑をかけたりしない私。調子に乗ってよけいなことをしない私。

そういう私でいないと、立っていられなかったのだと思う。

だから花束は困る。

花束は、こちらの武装をふわっとほどいてくる。「あなたは、ただ喜んでいいんですよ」みたいな顔をしてくる。

やめろ。急にそんな顔をするな。こっちはまだ戦闘服なんだよ。そういう人間に、急に花束を渡してはいけない。心の受け取り口が渋滞する。ありがたい。でも困る。でもどう扱えばいいかわからない。水に挿す?どのコップに?花瓶が発明される前は、人類はどうしてやりすごしていたの?

そんなことで頭がいっぱいになって、感動どころではない。

そして、感動できない自分をごまかすために、私は言っていたのだ。

「花束なんてもらっても、うれしくない」

ああ、かわいくない。かわいくないが、今ならわかる。あれは冷たさではなかった。受け取り下手だった。

花束を喜べない人は、感性がないのではない。疲れているだけかもしれない。美しいものを受け取ることに慣れていないだけかもしれない。

でも、だからこそ花なのかもしれない。花は、何も解決しない。でも、現実に押しつぶされている自分の視界を少しだけ変える。

朝起きて、花が目に入る。昨日より少し開いている。光の当たり方で、色が違って見える。それだけのことなのに、ほんの少し呼吸が戻る。

「あ、私の生活には、まだこういうものが入る隙間があるんだ」そう思える。

そういう、履歴書にも書けないし、請求書にも載らないし、ポイントもつかないものに、日々少しずつ救われている。

なのに昔の私は、そういうものをバカにしていた。「意味ある?」「それ、何になるの?」「食べられるの?」

うるさい。黙れ、昔の私。

全部を栄養価で測るな。人生はカロリー計算だけでできていない。人間は米と味噌汁だけで生きているようで、実はときどき、どうしようもなく美しいだけのものにも養われている。

美しいものを喜んでしまったら、自分が本当はずっと欲しかったものに気づいてしまう。

私は、大切にされたかった。私は、ただ喜びたかった。私は、役に立たなくてもここにいていいと思いたかった。私は、ちゃんとしていない日にも、何か美しいものを受け取ってよかった。

でもそれを認めるのが怖かった。

だから花束を雑に扱った。笑いにした。「食べられない植物はいらない」と言った。

本当は、食べられないからこそよかったのだ。

食べられるものは、身体を満たす。食べられない花は、身体ではない場所を満たす。

そこに花は、勝手に入ってくる。

やめてくれ。まぶしい。その無言の肯定、やめてくれ。

そう思うのに、見てしまう。

大変残念なことに 私は、花束をもらったら、簡単に泣ける人間になってしまった。(歳を取ると涙もろくなるよね・・・ね??!!!)

「ありがとう」と言いながら、いったん冷静な顔をする。そして帰り道で、花束を抱えた自分の姿がガラスに映った瞬間、急にくる。

ああ、私はこういうものを受け取ってよかったのか。

そう思って、たぶん少し泣く。

花束は、花だけではない。誰かが自分のために、時間を使ってくれたこと。色を選んでくれたこと。枯れるとわかっているものに、お金を使ってくれたこと。その全部を抱えて帰ることなのだ。

それを「食べられない」の一言で切り捨てていた。

でも、責めきれない。あの頃の私は、あの頃の私なりに必死だった。

「そんなもの、欲しくない」と言っておけば、もらえなかったときに悲しくならない。「花なんていらない」と言っておけば、大切にされたい自分を隠せる。

なんて不器用なんだろう。でも、人はだいたい不器用だ。

欲しいものほど「いらない」と言う。傷ついたところほど「平気」と言う。抱きしめてほしいところほど、腕を組む。

そういう謎の生き物である。

だからもし今、花束なんていらないと思っている人がいても、私は否定しない。

花束が苦手でもいい。花に興味がなくてもいい。米はうれしい。洗剤もうれしい。商品券はとてもいい。

でも、もし心のどこかに少しだけ引っかかるものがあるなら、一輪だけ買ってみてほしい。スーパーの端にある小さな花でいい。花瓶がなければコップでいい。

大事なのは、部屋をおしゃれにすることではない。

自分の生活に、美しいものをひとつ置くこと。

ちゃんとしている日ではなくても。自信がある日ではなくても。誰かに褒められた日ではなくても。何も達成していない日でも。

「私のそばに、これくらい美しいものがあってもいい」

そう許すこと。

花一本で人生は変わらない。でも、花一本を自分に許せるようになった人の明日は、今日と少し変わった1日を過ごすことになる。

だから私は今、花束なんてもらってもうれしくないと公言していた自分を、助走つけてぶん殴りたい。そしてそのあと、ちゃんと抱きしめたい。

「あんた、ほんとはずっと欲しかったんだよね」

そう言ってやりたい。花束そのものじゃない。自分のために差し出された美しさ。自分がそれを受け取っていいという許可。

それが欲しかった。

花は食べられない。すぐ枯れる。水替えも必要。実用性で言えば、白菜に負ける。

でも、白菜には白菜の仕事があるように、花には花の仕事がある。

白菜はダイレクトに胃袋を満たす。花は心のどこかを満たしてくれる。私は、白菜だけで人生を乗り切ろうとしていた。

それはそれで、よく頑張った。

でも、もういいのだ。

食べられない植物が、部屋にあってもいい。すぐ枯れるものに、お金を使ってもいい。役に立たないように見えるものに、救われてもいい。誰かの好意を、変に照れずに受け取ってもいい。

花束を抱えて帰る自分を、似合わないなんて笑わなくていい。受け取ると決めた瞬間から、似合っていくのだと思う。

私へ。

あなたが「花束なんてうれしくない」と言っていたことを、私はもう責めない。あれは生き延びるための、少し雑な鎧だった。でも、あなたが必死に守ってくれたおかげで 今となってはその鎧を少し脱いでもよくなったのだ。本当に感謝している。ちゃんと守り切ったな。

花は食べられない。だけど、あなたの心を飢えさせないために、ちゃんとそこに咲いている。今度、花束をもらったら、ちゃんと受け取ろう。自分でも、一輪買って帰ろう。

そして昔の私に見せびらかそう。

「見ろ。食べられないけど、けっこういいぞ」

たぶん昔の私は、まだ少しふてくされる。でも、ちょっとだけうれしそうに笑うんだ。

女性と、その背後に影のような顔。誰の声?

「人面疽(じんめんそ)」をご存じかしら?
 

体のどこかに、人の顔をしたおでき(腫瘍)ができる。
やがて その顔が言葉をしゃべる。 宿主と口論したり、勝手に笑ったり。
 

江戸時代の妖怪画家・鳥山石燕の作品にも描かれた、 日本の怪異の中でもなかなかブキミな存在なのだけれど、 私が一番ゾワッとするのは、 19世紀イギリスに実在したとされるエドワード・モードレイクの話。
 


彼はとあるイギリス貴族の後継ぎとして19世紀に生まれた美しい青年だった。
音楽の才能もあり、知性もあり、誰もが羨む人生を歩んでいた。 ただひとつの「それ」を除いては。
 

実は 生まれつき後頭部にもう1つの顔があったのだ。 後頭部の顔についている目は見えていないようだったし、 口は食べることもできなかった。
 ただ、モードレイクが「喜ぶ時には嘲笑を浮かべ」、 また「嘆き悲しむ時には微笑んだ」という。
 

さらには後頭部の顔が夜になると 「地獄でしか話されないような恐ろしいこと」を彼にささやく。 モードレイクはその耐えがたい苦痛で 毎日悩み苦しんだ。
 

彼は何度も医師に訴えた。「この顔を取り除いてくれ」と。 でも誰にもできなかった。
 苦しみの果てにエドワードは23歳で自ら命を絶った。
 

遺書にはこう書かれていたという。
「この悪魔の顔と、これ以上共に生きることができない」



これは1895年に発表されたフィクションが起源とされています。
長らく医学的記録として語られてきたけれど、創作でした。
 

でも私は、これが完全なフィクションだとは思えないのです。
 なぜなら私たちは全員、 目に見えない この「人面疽」を持って生きているから。
 

その"顔"は今日も、私たちにささやいている。

「このままじゃダメだ」

「私には価値がない」 

「こんなはずじゃなかった」

 

聞き覚えがあるでしょう?
私たちは この声を、自分の本音だと思ってきた。 正直な自己認識だと思ってきた。
 

でも待って。これ、本当にあなたの声なんだろうか?

 

人間には本能として ある行動原理が組み込まれている。
自分を追い込み、痛みを作り出す。そしてその痛みから逃れるために動く。
 不安と恐怖をエンジンにして 安心安全を求める気持ちを燃料に。
 

こうして 私たちはありもしない生きるか死ぬかの危機を頭の中に作り出して、 「劣等感」という痛みで自分を追い込む。 そしてその痛みから逃れるために、必死に動く。 これが私たちの中に生えた人面疽の、最初の顔。
 

でも面白いのはここから。

その痛みに疲れ果てると、今度は顔が表情を変える。

「待てよ?私が仕事で能力を発揮できないのは、 会社がクソすぎるからじゃないか?」
 「私はダイヤの原石なのに、親ガチャでハズレを引いたから輝けないんだ。 環境って大事だもの」
「うすっぺらいおしゃべりだけの主婦と話してても何の成長もない。 磨き合える仲間を探そう」

劣等感が、優越感に反転する。
でも顔は同じ顔だ。表情が変わっただけで、 体に生えた人面疽は何も変わっていない。
 

"劣等感"が限界を迎えて 同じ優劣の土俵で "優越感"に反転したということ。

 

同じように 自分に価値を見い出せない"無価値感"は 自分だけにしか特別な価値を見い出せない"選民意識"に。
 "罪悪感"で自分を責め続けたら 同じ正義で裁く土俵の上で 他人を悪者にする"ジャッジ"に振り切る。
 

左側に疲れると右側に逃げる。右側に疲れると左側に戻る。
私たちはこの振り子の上で、ずっとぐるぐるとさまよい、揺れ続けるのです。
 

でもよく見ると、左も右も同じ軸の上にあって。

 「優劣」という軸。「特別な価値があるかないか」という軸。「正しいか間違っているか」という軸。
この軸の上でどちらに振れても、人面疽はしゃべり続けるのです。軸が変わっていないから。


 

ここで一度、立ち止まってほしい。

「生きづらい」とか「楽になりたい」と思ったことがあるでしょう。
 私たちはその声を、自分の深い本音だと思ってきた。魂の叫びだと思ってきた。
 

自分を追い込み、痛みを作り出す。そしてその痛みから逃れるために動く生存本能なんだから、 苦しくて生きにくいのは当たり前なんだけど……

でも——この「生きづらい」という声。その「楽になりたい」という声。
それ、誰がしゃべってる? そう。

人面疽(生存本能)が、しゃべっているのですよ。
 

痛みを作り出した張本人が、「痛い、苦しい、助けてくれ」と宿主に訴えている。
 加害者と被害者が、同じ顔なのです。

 

こうして私たちはずっと、自分の体にできたおできの顔の言葉を信じて、 その声に従って生きてきた。
 

劣等感に追い込まれて動いて、疲れたら優越感に逃げ込んで、
また罪悪感にさいなまれながら 人を裁くことで正気を保って。
その混乱に満ちた繰り返しの中で「これが人生だ」と思ってきた。
 

これは 顔を切り取ればいいとか 声を無視すればいいのかという話ではないのがミソ。
 

だってエドワード・モードレイクは顔を取り除こうとして、 誰にも(本人も含めてあらゆる専門家でも)できなかったじゃないか。
 顔と戦っても意味がないし、顔を憎んでも意味がないのですよ。
 

必要なのは、軸ごと降りること。

「優劣」という軸の上で戦うのをやめること。
「価値があるかないか」という土俵から降りること。
その軸の上にいる限り、人面疽はしゃべり続ける。
表情を変えながら、永遠に。

軸を降りた瞬間、人面疽の声は初めてただの「音」になる。意味を持たない音に。

 

軸を降りたところで、 その先には何もない、と思うかもしれない。
優劣も、価値の証明も、正しさの確認もない世界なんて 空虚じゃないかと思うかもしれないけれど。
 

でも私たちが経験してきたことは、逆だった。

軸の上では、可能性はいつも「比較」の中にあった。
あの人よりできるか、できないか。
あいつは私が尊敬できることが1つでもあるのか。
去年の自分より成長したか、していないか。 

成長を止めるじゃま者はいないか。
社会の基準に届いているか、いないか。
社会を乱したり害を及ぼすふとどき者はないか。
その枠の中でしか、可能性を探せなかった。

 

軸を降りた先には、比較を必要としない可能性があるのですよ。
 誰かより優れている必要も、何かを証明する必要もない場所。
そこで初めて私たちは、本当の自分の声を聞く。
 

人面疽の声ではなく、比較の痛みから生まれた声でもなく、 もっと静かで、もっと遠いところから来る声を。



私はそれをヴィジョンと呼んでいます。 天啓(天の啓示・天のおぼしめし)、と言ってもいい。

人面疽がしゃべり続ける騒音の中でも、ほんとうはずっと届いていた声。
軸を降りて、なにもない空っぽのところでしか受け取れない声。
 

その声の先にしか、私たちの無限の可能性は、ない。
 


私たちはずっと、体にできたおできの顔の声を「自分」だと思って生きてきて。
確かにこの声は私の一部においては真実なのかもしれないけれど 全部でないし 私そのものの"実態"でもない。

私そのものが受け取っている声は、もっとずっと静かな場所にある。

 

人面疽は今日も、あなたにささやいている。

「生きづらい」「楽になりたい」

 「私はカフェでホッとするために生きている」

 「あいつさえいなくなれば」

「天職にめぐりあえたらうまくいくのに」

 「まともな会社はきっとある。死ぬ気で探せ」 

「私の人生の目的は死なないこと」 

「あの人に愛されることが わたしのすべて」
 

その声を聞くたびに、思い出してほしい。

これは、誰の声なのか?

そう問いかけることが、軸を降りる最初の一歩になる。

 

あなたの無限の可能性は、生きるか死ぬかの軸の外側にある。

人面疽の声が静かになったとき、初めてそれは聞こえてくる。


 

この「軸を降りる」練習を、31日間かけてじっくりやる講座を作りました。
 

インサイドビジョン・グランドオーダー

メール通信講座です。

人面疽の声——セルフイメージ、思い込み、過去のパターン——に気づき、
だまらせ、その奥にある静かな声を受け取っていく。
 

そのために必要な4つの感覚を、順番に養います。

毎日届くメールを読み、できる範囲でワークに取り組む。

それだけの、自学自習の講座です。
 

ただただ、「これは誰の声?」と問いかけることを、毎日続けていく。
 

その31日間が、人面疽の声に振り回されてきた人生から、グランド・オーダーと共に生きる人生への、静かな転換点になります。
 

現在の価格は、55,000円です。

くわしくはこちら ↓

インサイドビジョン・グランドオーダー<通信講座>

申込ページを開く ▶ https://www.reservestock.jp/conclusions/27967



人面疽は、取り除けません。

でも、軸を降りることはできます。

その先に、あなたの声があります。
 

グランド・オーダーが、ずっとそこで待っています。

それでは。

受け取るのも与えるのもやめよう
先日のつづき。脳の話をさせてください。
 

やっぱり難しい話じゃないですよ。
でも、「なぜ私はいつもこうなんだろう」という私たちの疑問に、ちゃんと答えをくれる話です。

人間の脳は、進化の過程で3つの層が重なってできていると言われています。「三位一体脳モデル」と呼ばれる考え方です。

進化の過程で わたしたち人類が獲得した3つの脳は
私たちの複雑な行動や心理をもたらしてくれました。

画像
 

戦争に巻き込まれていなくても、被災していなくても
日々をパニックの錯乱状態の中で過ごしている人は少なくなく
自分を見失い、忘れ、つながれなくなります。
(私もすぐパニくる豆腐メンタルですしねえ)
 

「大丈夫」という安心感がはぐくまれていくと 
自然と主導権は 爬虫類脳(脳幹)から 哺乳類脳(大脳辺縁系)にひきつがれます。
ねずみちゃんや うさぎちゃん、くまさんです。
 

哺乳類は群れを作ります。
仲間と寄り添い、一緒に眠り、一緒に食べる。
 

爬虫類は基本的に単独行動。 交尾したら、卵を産んだら、それきり。
群れない。寄り添わない。温め合わない。

安全と安心、情報やメリットを"受け取る"一方の爬虫類と比べると、
哺乳類は大きな進歩です。
 

でも、ここで美しい話だけして終わるわけにはいきません。
 

哺乳類の群れには、厳しい現実があります。

年老いたり、病気やケガで動けなくなった仲間は置き去りにされます。
障害を持って生まれた子供は、育ててもらえません。
 

彼らが一緒にいるのは「役割を果たすこと」が前提です。
群れに貢献できない個体は排除する。これが鉄則。
 

母が子を抱くのは、愛というよりも 子孫を残す本能です。
子が母の乳を吸うのも、母を慕っているわけではありません。

喜びや悲しみの表情もしますが、ほとんどは"社会的反射"と言われるものです。
 

貢献、役割、責任、価値提供——哺乳類は、
爬虫類と違って"与える"ことができます。
でも、それは「仲間でいてもらうための取引」です。
 

「役に立つから、ここにいていい」 「貢献するから、排除されない」 「価値を提供するから、群れに入れてもらえる」


……心当たりは、ありませんか?

「役に立たない自分には価値がない」
「頑張らないと、必要とされない」
「何かを提供し続けないと、関係が終わる」
これは、哺乳類脳が動かしている感覚です。
 

爬虫類モードの「逃げるか、戦うか」からは抜けた。
群れの中にいられるようになった。

でも、それは条件つきの安心です。
役割を果たしている限りは、ここにいられる。
貢献し続ける限りは、排除されない。

だから、休めない。 だから、弱みを見せられない。
だから、「助けて」が言えない。
 

休んだら、置き去りにされるかもしれない。
めんどくさいやつだと思われたら、群れから外されるかもしれない。
 

哺乳類の群れにいるのは、永続的な安心ではありません。
「取引が成立している間だけの安心」です。

そして、哺乳類の脳には、もうひとつ、できないことがあります。

未来を描けない。

 

哺乳類は、「今、ここ」を生きています。
今、お腹が空いた。食べる。
今、仲間がいる。安心する。
今、危険がある。逃げる。

すべてが「今」。
 

ウサギやねずみやクマはこんなことを考えません。
「来年、どうなりたいか」
「5年後、どんな自分でいたいか」
「魂の目的は何か」
こういう問いは、哺乳類の脳には扱えません。
 

だから、哺乳類モードで止まっている人は、こうなります。
「毎日それなりに忙しい。でも、何のために頑張っているかわからない」
「友達もいる。家族もいる。でも、自分が何をしたいかわからない」
「役に立っている実感はある。でも、それが本当にやりたいことかと聞かれると、黙ってしまう」
 

心当たりは、ありませんか?

つながりはある。役割もある。 でも、クリエイティブにはなれない。

「どうしたいか」がわからない。

これは、哺乳類の脳だけでは、どうにもならないのです。

ここで初めて、3つ目の脳——人間の脳(大脳新皮質)の出番です。

人間の脳は、未来を想像できます。 まだ存在しないものを、思い描ける。

「こうなりたい」「こうありたい」「これをやりたい」を、創造できる。
文化の影響を受け、新たな文化を生み出せる。
時代に翻弄されつつも、次の時代を作っていける。

 

そして、もうひとつ。
「私は私でいい」と感じられるのも、この人間脳の働きです。

役に立つから価値がある、ではない。
貢献するからここにいていい、でもない。
 

何もしていなくても、何も提供していなくても、私は私でいい。
受け取るのか 何を与えるのか それとは違う次元。
”何を生み出せるのか”で生きている。



この感覚は、哺乳類の脳からは出てきません。

哺乳類にとって、「提供しない個体」は排除対象ですから。
「私は私でいい」は、人間だけが持てる感覚です。
 

爬虫類脳が「大丈夫」を。
哺乳類脳が「ひとりじゃない」を。
人間脳が「私は私でいい」を。

この3つが揃って初めて、人は魂の目的を描き、創造し、生きることができる。

どれかひとつが欠けていても、うまくいきません。
 

「大丈夫」がなければ、サバイバルモードで凍りつく。
「ひとりじゃない」がなくても、条件つきの取引の中で疲弊する。
「私は私でいい」がなければ、未来を描く力が湧いてこない。

3つの脳を、下から順番に、もう一度目覚めさせていく。
 

インサイドビジョン・グランドオーダーの31日間は、まさにこの旅です。

第1週「目覚め」と第2週「手放し」で、爬虫類モードを静め、身体をゆるめ、「大丈夫」の感覚を取り戻す。

第3週「共鳴」で、取引ではない本物のつながりを感じ、自分の内側から湧いてくる声に耳を澄ませる。

第4週「明け渡し」で、「私は私でいい」の感覚の中で、魂の目的を受け取る。
 

進化の過程をもう一度なぞるように、爬虫類から、哺乳類へ、そして人間へ。

凍りついた身体を溶かし、条件つきの取引から自由になり、未来を創る力を思い出す。
 

メールを読みながら涙する方も少なくありません。

それは、凍っていたものが溶け始めたサインです。
生き延びるために冷やし続けてきた身体と神経に、温かい血が、また通い始めたサインです。
 

通常価格: 55,000円 一般販売価格: 24,800円

本日5月15日(木)23:59まで。明日からは通常価格(55,000円)に戻ります。

くわしくはこちら ↓ インサイドビジョン・グランドオーダー
 


もし あなた が今、こんな状態にいるなら。
・身体が凍りついている。
・役に立ち続けないと、ここにいられない気がする。
・未来が描けない。


それは、3つの脳のどこかが、まだ眠っているだけです。
もう一度、目覚めさせましょう。
生命誕生の歴史をなぞりながら爬虫類から、哺乳類へ、そして人間へ。

31日間で、一緒に。


それでは。

今日は少し、脳の話をさせてください。

 

難しい話ではありません。
でも、「なぜ私はいつもこうなんだろう」という疑問に、驚くほどシンプルな答えをくれる話です。

 

人間の脳は、進化の過程で3つの層が重なってできていると言われています。

「三位一体脳モデル」と呼ばれる考え方です。

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生命として根本的なところ いちばん奥にあるのが、爬虫類の脳。
脳幹と呼ばれる部分で、生命維持を担当しています。
呼吸、心拍、体温調節。そして、「逃げるか、戦うか」という本能的な反応。

 

その外側を覆うのが、哺乳類の脳。
大脳辺縁系と呼ばれる部分で、感情を担当しています。
喜び、悲しみ、愛着、不安。群れの中で仲間と共に生きるための、温かい感情の層。

 

いちばん外側にあるのが、人間の脳。
大脳新皮質と呼ばれる部分で、理性を担当しています。
言語、計画、論理的な判断、未来を想像する力。人間にだけ、特別に発達した層です。

 

3つの層が重なって、私たちの複雑な行動や心理をコントロールしています。
この3つの脳は、常にバランスよく働いているわけではありません。

恐怖やストレスを感じたとき、真っ先に反応するのは、いちばん奥にある爬虫類の脳です。
 

「危ない!」「逃げろ!」「戦え!」

理性が考える前に、本能が身体を動かす。

これは、生き延びるためには必要な仕組みです。

目の前にトラックが突っ込んできたら、考えている場合であるはずもなく、本能的に飛びのいたほうがいい。

でも、問題は——

実際には命の危険がないのに、爬虫類の脳がスイッチオンになってしまうこと。
 

たとえば、こんな経験はありませんか?

テレビの健康番組で「頭痛だと思ったら、実は脳梗塞だった」という特集をやっていた。

見た瞬間、心臓がドキッとする。

「そういえば、私も最近 頭痛がある」
気づいたらスマホを手に取り、「頭痛 脳梗塞 前兆」で検索し始めている。

記事を読めば読むほど不安になる。症状が当てはまる気がしてくる。
夜、眠れなくなる。
もう テレビを気楽に見ることすら、できなくなっているということ。

 

これが、爬虫類の脳がスイッチオンになった状態です。
実際には命の危険はない。ただテレビを見ていただけ。
なのに、脳は「生きるか死ぬか」のサバイバルモードに入っている。
 

爬虫類の脳がスイッチオンになると、テレビだけの話では終わりません。
人間関係も、サバイバルモードになります。

本来、人間関係は哺乳類の脳——温かい感情の層——で営まれるものです。
 

相手の気持ちを想像する。
共感し、つながりを感じる。
一緒にいる安心感を味わう。

でも、爬虫類モードに入ると、これができなくなります。
 

「逃げるか、戦うか」しかなくなるのです。

相手の言葉が攻撃に聞こえる。
想像した通りの反応をしてくれないと、「なにこいつ?」と違和感を感じる。
自分を守るために、先に攻撃する。
思ったことを全部ぶつけて、ぶつかり合うことでしか関係を作れない。
 

「本音でぶつかり合うのが本当の関係だ」そう思い込んでしまうこともあります。

でも、それは本音ではありません。恐怖から発射された、サバイバルの武器です。
 

暴言を吐いてしまう。
言わなくていいことを言ってしまう。
関係が壊れる。

そして、「またやってしまった」と自分を責める。これが繰り返される。
 

さらに深刻なのは、サバイバルモードが長く続いた時です。
逃げても戦っても、もう無理だと感じたとき。
爬虫類の脳には、もうひとつの選択肢があります。

冬眠。活動休止。(いわゆる強制終了です)
 

何もできなくなる。
動けなくなる。
感じなくなる。

生き延びようとして疲弊した身体。
緊張で冷えた神経。
回らない頭の中で、冷たく、固く、身も心も冷えすぎて、もう動けない。
身体は限界まで頑張った。
神経は張り詰め続けた。
でも、もう無理だ。だから、凍る。

群れの中で温かい血が通った、感情豊かな哺乳類としての活動が止まる。
仲間と心を通わせることができなくなる。
誰かに頼ることも、頼られることも、怖くなる。

理性的で知的な、人間らしい未来創造も止まる。
夢を描くことができなくなる。
「どうしたいか」という問いに、答えられなくなる。
身体は生きているのに、中身が凍っている。
 

もし今、あなたの心がヒリヒリしているなら。

安心感を感じられず、いつも緊張して、毎日が生きるか死ぬかのように感じているなら。

それは、あなたが爬虫類になっているサインです。

あなたが弱いのではないし
あなたが性格的に問題を抱えているのもでありません。

脳のいちばん古い層が、常にスイッチオンになってしまっているだけで
哺乳類としての温かさも、人間としての創造力も、消えたわけではありません。
暴走する爬虫類の脳の支配下に、ちゃんとある。ただ、凍りついているだけ。


先日ご案内した「インサイドビジョン・グランドオーダー」。

31日間のメール通信講座ですが、最初の10日間は、集中的にリハビリをします。
凍りついた爬虫類モードから、温かい哺乳類モードへ。
そして、未来を創造できる人間モードへ。
 

毎日届くメールを読みながら、小さなワークに取り組むだけ。少しずつ、溶かしていきます。

毎日取り組まなくてもいいし、メールを開けない日もあるでしょう。
ワークだって特別なものではないのだけど、メールを読みながら涙する方も多いです。

それは、悲しいからではなく、凍っていたものが溶け始めたサインであり
温かい血が また通い始めたサインです。


通常価格: 55,000円  一般販売価格: 24,800円

55%オフは 5月15日(木)23:59まで。
5月16日からは通常価格(55,000円)に戻ります。

くわしくはこちら ↓ 
https://www.reservestock.jp/conclusions/27967

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もしあなたが今、心がヒリヒリしているなら。
毎日が生き残りをかけた戦いのようで 
サバイバルのように感じているなら。

それは、爬虫類の脳が、あなたを守ろうとしてくれているだけです。

でも、もう大丈夫。

凍りついたまま生き延びるのではなく、温かさを取り戻して、本当のあなたに還る。

31日間で、一緒に思い出しましょう。

それでは。