そう言ったのは、詩人・谷川俊太郎だったか。正確な言葉はうろ覚えである。冷蔵庫のプリンは忘れないのに、偉大な詩人の言葉は「なんかそんな感じ」で済ませる。人間とは、つくづく都合のいい生き物である(遠い目)。
でも私は、この感覚がとても好きだ。
悲しみは、弱さではない。悲しめるということは、何かを大切にしていたということだ。誰かを愛していた。信じていた。期待していた。わかってほしかった。だから悲しい。
つまり悲しみとは、心がまだ干物になっていない証拠である。ちゃんと水分がある。カラカラの高野豆腐ではない。水で戻せば、まだ味噌汁に入れる。
そして私は思うのです。怒りも同じだと。
人間、怒りがなくなったら終わりだ。怒りは、ただの乱暴な感情ではない。変革のエネルギーそのものだ。人間の創造力の根源だ。
「これはおかしい」
「こんな扱いをされる筋合いはない」
「この世界、ちょっと雑につくられすぎていないか」
「誰だ設計者、出てこい。菓子折り持って土下座しろ」
この腹の底から湧き上がる熱が、世界を少しずつ動かしてきたのだと思う。怒りがなければ、誰も声を上げない。何も変わらない。文章も、芸術も、革命も、たぶん生まれない。
怒りがなければ、私は今日もおとなしく洗濯物をたたみながら、「まあ人生こんなもんよね」と言っていた。
いや、洗濯物はたたむ。でも、心までたたまれてたまるか。
だいたい、仏像だって怒り散らしている。不動明王なんて、完全に「話を聞かんかい」の顔である。ありがたいけど、町内会にいたらちょっと怖い。
あの怒りは、人を壊すための怒りではなく、目を覚まさせるための怒りだ。ぬるい自己憐憫に浸かっている背中を、「そこ、温泉ちゃうぞ。沼やぞ!!」と引っぱり上げる怒りだ。
怒りは、魂の火災報知器である。うるさい。かなりうるさい。でも鳴らなかったら終わりだ。家が燃えているのに、「近所迷惑になるから静かに燃えましょう」なんて言っている場合ではない。逃げろ。絶叫しろ。水をぶちまけろ。なんなら裏のドブ水でいいから。
でも私たちは、この怒りをずいぶん長いあいだ封じ込めるように自分たちを訓練してきた。
相手だって悪気はないのだから許してあげなさい。わかってあげられて、仲直りできる人でいなさい。大多数に交わり、空気を読みなさい。我慢できることが大人になるということです。
怒る女は怖い。
怒る母はみっともない。
怒る妻は面倒くさい。
怒るおばさんは老害。
はい、出ました。便利な言葉、老害。この二文字の雑さよ。
もちろん、本当に迷惑な人はいる。「俺の若い頃はな」と始まった瞬間、こちらの寿命が三分ほど引きちぎれる人。そういう人は、そっと妖怪図鑑に載せておきたい。
でも最近は、ただ年上の人が意見を言っただけで「老害」と呼ばれることもある。否定の言葉や鋭い指摘はハラスメント認定もされやすい。
都合の悪いことを言われた。痛いところを突かれた。見ないふりをしていた矛盾を指摘された。そのときに「老害」とラベルを貼れば、相手の言葉を聞かなくて済む。
それ、本当に老害なのか。
ただ都合が悪いだけなのか。
都合のいい置物として黙らされるくらいなら、怒れる老害でいい。かわいげのある沈黙より、扱いにくい正直さのほうが、よほど人間らしい。
変に丸くなって、ニコニコ微笑むだけの「かわいいおばあちゃん的マスコットガール」になるくらいなら、私はもっと扱いにくいBBAでいたい。殺しても死なない老害と、後ろ指をさされる人でいたい。
もちろん、本当に殺してはいけない。比喩である。コンプライアンスという名の見張り番が、こちらをじっと見ている。
でも、そういうことなのだ。
簡単には黙らない。雑に分類させない。都合よく消費されない。
怒りは、自分の境界線が踏まれたときに出る反応だ。
「そこから先は入ってくるな」
「その扱いは嫌だ」
「私は物ではない」
「便利な人間として消費するな」
そういう、心の警備員である。
ただし、怒りの使い方はとっても大事。自分の不機嫌を相手にぶつけるだけなら、それは怒りではなく八つ当たりである。怒り界のパチモンである。
本物の怒りには、悲しみがある。宇宙創世のエネルギーの根源であり、仏教界のレジェンド大日如来が宿す『慈悲』というやつですわ。
わかってもらえなかった悲しみ。大切にされなかった悲しみ。信じたかったのに裏切られた悲しみ。何度も我慢して、それでも届かなかった悲しみ。
怒りは、その悲しみが立ち上がった姿なのだと思う。泣いていた自分が、ある日むくっと起き上がり、
「いや、待てよ。なんで泣いてるばっかりじゃ 何も変わらねエ!!」と言い出す。
これが怒りだ。
つまり怒りは、悲しみの第二形態である。悲しみが進化して怒りになる。そして最終進化で、創造になる。
テレレレッテレー。
あなたの悲しみは怒りに進化した。
あなたの怒りは慈悲によって言葉を覚えた。
あなたの言葉は誰かの心をぶん殴った。
おめでとう。
年齢を重ねると、人は丸くなると言う。たしかに、どうでもいいことに腹を立てなくなる部分はある。それは成熟だ。
でも、なんでもかんでも流せるようになることが成熟ではない。流してはいけないものまで流すようになったら、それはただの排水溝である。
「大人になって世間を知り、やさしくなった」なんて無気力のお上手ないいわけじゃないか。
「若い時みたいになんでも嚙みつく時期は終わった」なんて あきらめるのがうまくなっただけじゃん。
「貴重な体力と気力を重要なものに集中することにした」とは見上げた根性だ。逃げ足早くなったな。
もちろん、全部に噛みつけと言っているのではない。電柱にも、レジ袋にも、天気予報にも怒っていたら、こちらの命が先に削れる。
けれど「怒らない私」を美しい成熟として飾り始めたら危ない。それはただ、自分の中の火を仏壇の線香くらいに小さくしているだけかもしれない。
人生後半の成熟とは、何でも許せる仏になることではない。
許すものと 許さないもの、 変えられないものと 変えるべきタイミングが来たものとを自分で選べるようになることだ。
「これはまあ、いい」
「これはもう、手放そう」
「でも、これは絶対に変わるべきタイミングが来ている」
そうやって、自分の中の基準がはっきりしていく。
だから私は、ただ丸い人になりたいとは思わない。まんまるの人は転がされやすい。私は少し角がほしい。雑に扱おうとした人が「痛っ」となるくらいの鋭利な角がほしい。
それは意地悪の角ではない。
自分をふちどる輪郭だ。
かわいいおばあちゃんにならなくていい。なりたい人はなればいい。でも全員がそこを目指さなくていい。
私は、よくしゃべる不動明王。回覧板を持った閻魔大王。
家庭用サイズの阿修羅。ママチャリで爆走する毘沙門天。
背中に業火、手には老眼鏡。
台所の煮物はコトコト弱火でも、思想は強火で行くぜ。
そんなBBAでいたい。更年期は覚醒期なのだ。
ただし、怒りというやつは扱いがむずかしい。そのまま投げると、だいたい火炎瓶になる。悲しみも同じだ。深いのはいい。でも、いきなり深海に連れていかれると、人は溺れる。
だから、重い話ほど軽い顔で始めたい。ただの雑談みたいに入ってきて、「わかるわかる、あるよね」なんて笑っていたら、気づいたときには、自分の胸の奥に置きっぱなしにしていた感情の前まで連れてこられている。
そんな対話がしたい。
笑いは、怒りを薄めるためのものではない。変化を届けるための乗り物だ。
怒り単体だと戦車みたいになる。でも笑いを乗せると、観光バスになる。
「右手に見えますのが、四十年分の我慢でございます」
「左手に見えますのが、いい人をやりすぎた結果できた心の廃墟でございます」
「この先、急カーブが続きますので、感情のシートベルトをお締めください」
そうやって案内しながら、共に谷底へ連れていく。
ひどい。
でも親切ではある。どんな人にも心からの敬意をもって関わりたいからだ。
感情を殺して丸くなるのではなく、感情を燃やして明るくなる。炎上ではなく、発光である。
扱いやすい人ばかりの世界は、たぶん静かだ。でも、その静けさは本当に平和だろうか。
誰も怒らない世界は、穏やかに見える。でもその下で、誰かが我慢している。誰かが「私さえ黙っていれば」と自分を消している。
そんな平和なら、私は少しうるさいほうがいい。
おかしいことには、おかしいと言いたい。悲しいことには、ちゃんと泣きたい。怒りが湧いたら、その炎と涙で言葉にしたい。そして最後には、関わる人を少し笑わせたい。笑いは生きる力だからだ。
だから、怒れ。
でも、ただ怒るな。
笑わせろ。
悲しめ。
でも、沈みっぱなしになるな。
言葉にしろ。
命の火を持て。
「老害」と言われたら、胸を張ればいい。上等です。こちらは、ただの老害ではないのだ。
悲しみを知り、怒りを燃やし、笑いまで添える、発火型老害です。
今日も元気に、炎上ではなく発光していきましょう。
世界を動かすのは、いつだって少し扱いにくい人間なのだから。
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