『仏教の教えは現実そのもの』

西嶋老師はそのように説かれた。

前に書いたように、老師の教えに死後の世界や霊魂は存在しない。

宇宙人はいる可能性があっても、幽霊はあり得ない。

人間の日常と地続きの現実の世界を超えた存在を想定しなかった。

不必要とみなしていた、と言えるかもしれない。

英語でブログを書かれるようになってから、外国人に説明するのに「宇宙が神だ」というと分かりやすいようだ、とおっしゃったことがある。

しかし‘目に見えない設計者が宇宙と人間を絶妙にデザインした’、といった類の創造神話のバリエーションを意図されたわけではない。

‘神=絶対者=究極の拠り所’がある、あらねばならぬ、と信じている人からの「仏教におけるそれは何でしょうか?」という問いへの糸口/方便としての言葉だったと思う。

最晩年、人前で講義をされた最後に近い時点でも、『死ねば無である』と断言されていた。

『仏教は「行い」を中心とした教えである』

西嶋老師はまた繰り返しこう説かれた。

提唱の中で老師がある時期何度か言われた言葉がある。



『人がやった行いはそれがどんなに小さなものでも宇宙の歴史にきざまれて永遠に消えることはありません』


初めて聞いたとき、肝を冷やした。きびしい言葉だ。

瞬間は過ぎ去れば二度と帰らない。

ある瞬間の自分の行いは、あとになって消去することも編集することもできない。

取り返しがつかない、ということをこれほど思い知らせることばはないだろう。

一方で老師は「人間の(行為の)自由」ということを強く言われた。

「因果(原因結果の関係)」が世界を支配する絶対法則であるのと同時に、「刹那生滅(時間は瞬間ごとに断絶し、世界はつど滅し生じている)」が仏教における根幹の法理である。

連続しつつ断絶している時間が人間の「行い」の舞台となる。

過去に拘束されつつも、今、選択可能な行いがある。行為の自由がそこに発現する。

1967年に著わされた「第三の世界観」以来の老師のご説明である。

因果は絶対なので、自分のやったことは大小・顕密を問わず結果をもたらす。

環境や自分の他の無数の行為と干渉・相補して、影響の連鎖をつくる。

やってしまったことは取り返しがつかない。

過ぎ去った時間についてどんなに後悔してもできることは無い。

今、目の前の瞬間に何をするか。それ以外与えられていない。

しかし-ある巾の中とはいえ-確実に与えられてもいる。

どこまでも現実的であり、同時に救いでもある。

それが老師に教えていただいた仏教だと思える。