谷崎潤一郎の代表作の一つ、「細雪」の中巻には、昭和13年(1938年)の阪神大水害について、詳しく記されている。我々の住んでいる本山近辺のことについても同書では、
……時々甲南高等学校の生徒が二三人ずつかたまって来るのに行き遇い、呼び止めて様子を聞くと、この辺は何でもありません、本山駅から先が本当に大変なのです、もう少し歩いていらっしゃれば向うが全部海のようになっているのが見えますと、誰もが同じような答えをする。野寄の、甲南女学校の西の方へ行きたいのですがと云うと、さあ、あの辺は恐らく一番ひどいのではないでしょうか、僕らが学校を出てくる時分にもまだ増水していましたから、今頃は線路の上も、西の方は埋没してしまったかも知れません、などと云う。
やがて本山駅へ来てみると、なるほどこの辺は水勢が物凄い。貞之助は(註・二宮:蒔岡家次女の幸子の婿養子の名前)しばらく足を休めるつもりで線路から駅の構内へはいったが、すでに駅前の道路には水がいっぱいになっており、構内にも刻々浸入しつつあるので……(「細雪」中巻より)
と小説家は書いている。
(写真①阪神大水害での摂津本山の被害写真)
小説「細雪」の中で“7月5日の朝のことであった”から始まる水害で阪神間での被害がドキュメント風にかなりの紙数で詳述されている。
この「細雪」に関して「倚松庵」の案内石碑板には、
「文豪谷崎潤一郎は天界の恋を遂げた松子とこの「倚松庵」に住んだ その妹ふたりも寄寓する 戦争の暗雲をよそに船場の旧家の三姉妹はその典雅さを失わない
作家の目は光りかくて名作「細雪」は人も家もほぼ事実のままにここを舞台に誕生した」
と刻されている。(二宮註:この石碑板には句読点がない珍しい石板)
(写真②倚松庵の外観)
谷崎潤一郎は、明治19年(1886年)に旧東京市日本橋区蠣殻町(かきがらちょう)2丁目生れの生粋の江戸っ子である。明治44年25歳の頃から小説を書き始めている。
旧制第一高等学校を卒業して東京帝大国文科に入学しているが、22歳の頃には強度の神経衰弱を患っていると略伝には記されている。
そもそも、潤一郎と関西とのかかわり合いは大正12年(1923年)9月1日、避暑中の箱根で関東大震災に遭遇してからである。
(写真③関東大震災に遭い神戸へ避難した時の潤一郎(大正12年))
箱根から、いったん神戸へ行き神戸より船で横浜へ戻って東京府下杉並村に避難していた家族に会って9月に再び神戸へ向った。一時京都市上京区や左京区東山三条下ル西入ルの要法寺に移った後に、大正12年(1923年)年末には兵庫県武庫郡大社村越木(現・西宮市苦楽園四番町6)にあった万象館へ移りここで4ヶ月程過している。
さていよいよこれから、我々が活動する「本山北町まちづくり協議会」の本山北町地区や岡本地区へ潤一郎は仮寓する時代を迎えるのである。
(写真④旧国鉄摂津本山駅)
潤一郎は自身でも言っているように、引越しが非常に多く、阪神間に過した21年間でも先述した万象館から(大正12年)昭和18年(1943年)の兵庫県武庫郡魚崎町魚崎728-34(現・東灘区魚崎中町4丁目9番16号)までに13回の転居をくりかえしている。12回目の転居先が住吉村反高林(たんたかばやし)1876番地の203(現・東灘区住吉東町1丁目7番35)の潤一郎が愛着を持った家、「倚松庵」である。
この家には、昭和11年(1936年)11月から昭和18年11月(1943年)迄の7年間住んでおり、一番長期に亘り住んでいる。
(写真⑤倚松庵1階の間取図)
(写真⑥倚松庵2階の間取図)
13回の転居の内、本山北町1丁目から6丁目までの「本山北町まちづくり協議会」を構成する町内(旧本山村内)に限ってその住居と関係作品や人間模様を略述してみることとする。
大正13年(1924年)3月に2番目の転居先として武庫郡本山村北畑249-1へやって来た。現在の本山北町3丁目9番11号の地である所謂“北畑戸政”の借家である。本山児童館、本山小学校のすぐ東に位置する場所である。現在はその家は無く、写真の場所である。
(写真⑦潤一郎2番目の仮寓“北畑戸政の家”跡)
この場所で名作「痴人の愛」の前半部を3月から6月にかけて、「大阪朝日新聞」の為に執筆している。これの舞台は関西ではなく、東京や横浜、鎌倉を中心に主人公河合譲治とナオミを主人公とする小説であるが、この場所で執筆されたと考えると興味深い。
(写真⑧⑨⑩大正13年3月〜6月に大阪朝日新聞に掲載された「痴人の愛」)
(写真⑧)
(写真⑨)
(写真⑩)
挿絵(さしえ)の画家は田村良である。
なお後半部は「女性」11月号から翌年大正14年(1925年)7月号迄寄稿している。潤一郎が39歳の時である。
さて、谷崎潤一郎は、関西へ移住する前の大正4年(1915年)29歳の時に5月、前橋市出身の石川千代と結婚し、大正5年(1916年)長女鮎子(あゆこ)が両人の間に生れている。
(写真⑪千代夫人と長女鮎子)
千代とは昭和5年(1930年)潤一郎44歳の時に離婚し千代は潤一郎の親友佐藤春夫と結婚する。佐藤春夫39歳、千代35歳の時である。潤一郎と千代の別離の原因は潤一郎が千代の妹のせい子と親密になりすぎたことによるとされている。(せい子は「痴人の愛」のナオミのモデルであり、本名石川せい子、潤一郎の最初の妻の千代の妹であり、後に女優となった芸名葉山三千子である)
(写真⑫葉山三千子)
この潤一郎、春夫、千代の3人の離婚・結婚に際して世間の耳目を集めた有名な手刷に印刷した文面がある。その文面は以下の通りであった。
「拝啓 炎暑の候尊堂益々御清栄奉慶賀候 陳者我等三人此度合議を以って千代は潤一郎と離別致し春夫と結婚致す事と相成り 潤一郎娘鮎子は母と同居致す可く 素より双方交際の儀は従前通りにつき右御諒承の上 一層の御厚誼を賜度何れ相当の仲人を立て御披露に可及候へ共 不取敢以寸楮 御通知申上候 敬具
昭和5年8月 日
谷崎潤一郎・千代・佐藤春夫
様 侍史
尚小生は当分旅行致すべく不在中
留守宅は春夫一家に托し候間この首申し添へ候 谷崎潤一郎」
(註・二宮:日付と様は空白としている)
有名な世間で謂う谷崎の細君譲渡事件である。この3人の人間模様はこの9年前の「小田原事件」に始まり、私ごとき普通に生きている人間には(二宮)到底理解出来ない男女の人間模様である。皆様はどうであろうか。
この“戸政の家”での仮寓後、本山北町とは指呼の間にある、武庫郡本山村栄田259-1「好文園2号」また同じ「好文園4号」また本山村梅の谷1055などに転居をくり返している。昭和6年(1931年)4月には、鳥取出身で文藝春秋社の婦人誌「婦人サロン」記者の古川丁未子(ふるかわとみこ)と東京で知り合い岡本梅ヶ谷の家で同棲をしている。
(写真⑬古川丁未子)
潤一郎45歳、丁未子はまだ24歳であった。
この結婚生活は永く続かず昭和9年(1934年)には正式離婚をしている。離婚の原因の一つに巷説として潤一郎の性癖をあげる人もいる。有名人の有名税の一つであろうか。
小生にはその真偽はわからない。
その後も高野山での滞在、その後、武庫郡大社村森具根津別荘の別棟、昭和7年(1932年)には武庫郡魚崎町横屋川井550番地、同じく横井字川井431-3等に転々と転居して、昭和7年(1932年)にまたまた我々の活動する地、「本山北町まちづくり協議会」のある、武庫郡本山村北畑字天王通り547-2(現・東灘区本山北町5丁目11)に居を移してくる。潤一郎の阪神間居宅の第9番目の家である。(先述の如く潤一郎は阪神間で13回転宅をしている)
(写真⑭昭和7年(1932年)頃の阪急岡本駅)
この家は潤一郎9回目の仮寓であり本山村でも何百年も続いていた(註・二宮:現在も続いている)旧家井谷家からの借家であった。谷崎の仮寓先でも完全に残っている旧居の跡である。
現在の神戸市東灘区本山北町5丁目11の家である。
(写真⑮潤一郎9番目の仮寓・本山村北畑字天王通り547-2の家)
(写真⑯江戸時代から続く旧家井谷家 名うての旧家)
この頃の潤一郎は、第2夫人と別居をして、この家に独居をしていた。これも谷崎の有名な代表作の一つ「春琴抄」が書かれている。既に第3夫人となる根津松子とは恋愛関係になっており、この「春琴抄」も春琴を松子に、佐助を潤一郎に模しているとも言われる小説である。春琴と門弟佐助の物語である。
佐助後の温井検校(ぬくいけんぎょう)の書いた「鵙屋(もずや)春琴伝」という冊子を下敷にして展開される物語である。(フィクション)
潤一郎の内奥にあった根津松子夫人への献身的な愛情の捧げ方が見てとれる小説である。この本山北町5丁目の家で生れたかと思うとこの地の誇りうる創作であろう。
この小説は昭和8年(1933年)「中央公論」6月号に発表されている。
(写真⑰春琴抄の原稿)
この前後の年月に潤一郎と接したという人を何人か二宮は若い頃に知っていたが、もう少し今は亡くなったこの人達の話を聞いておけば良かったと思っている。後悔先に立たずである。
それはさておき、潤一郎はこの家には、借りた昭和7年(1932年)12月から翌年の7月迄わずか7ヶ月しか住まず、翌年7月には、これも旧井谷家の借家本山村北畑西ノ町448(現・本山北町5丁目10)へ転居した。
旧字地は違うが、この潤一郎10番目の仮寓先は新しい町名と番地が示す通り、家主の井谷家の主屋の西側と南側にある家で距離にして数十メートルの至近さである。
この10番目の家は新しくなっており(井谷家が土地を戦後売却したとのこと)写真のようにマンションと個人住宅2軒がある。谷崎の寓居はマンションより2軒東の薄いグリーンの家のあるあたりだったようである。
(写真⑱谷崎10番目の家 本山北町5丁目10)
我々の拠点である北畑会館からは徒歩でも約5分位に位置するのが9番目と10番目に潤一郎が住んだ借家と借家の跡地である。「本山北町まちづくり協議会」の会員でも知らない方も多いと思う。
さて、この頃はまだ正式には松子(根津松子)と結婚をしておらず、所謂最近よく使われる不倫関係が潤一郎と松子の間で続いており、松子が「お忍び」でこの今は跡地しか残っていない井谷家の借家本山村北畑西ノ町448(現・本山北町5丁目10)の家へ通っていたということは、谷崎潤一郎研究家が誰しもが認めている事実であるようだ。この年の5月には第2の夫人丁未子(とみこ)と協議離婚が成立している。潤一郎47歳の時代である。
この後、色々とこの作家は歴史を創り、正式に松子との恋を成就し、昭和24年には文化勲章を受章し(1949年)昭和40年(1965年)神奈川県湯ヶ原町吉浜(よしはま)の自宅で79歳にて死去、なお天界の恋をとげた第3夫人松子(小説「細雪」幸子のモデル)は平成3年(1991年)2月1日に死去した。87歳の長寿であった。
参考文献〜近代日本文学アルバム〜
(写真⑲武庫郡住吉村反高林にて松子夫人と)
(写真⑳文化勲章の勲記)
地元の歴史の掘り起しは楽しい作業である。
令和元年11月17日・記
[追記]
潤一郎の墓所は、
京都市左京区鹿ヶ谷「法然院」にある。
戒名「安楽寿院功誉文林徳潤居士」である。
(写真㉑法然院)
令和元年11月に行われた本山北町まちづくり協議会の文化講演会「保久良山とウォーキング」甲南大学名誉教授中島俊郎氏の講演後、「まちなみ部会」のまち歩きでこの稿の写真⑮⑯⑱の場所の説明を筆者二宮が行った。
(以上2点の写真は吉田昌弘さん提供)
二宮健(協議会監査役・旅行評論家)
[入力・編集:FKV武田]