

るきさんには家族もいるはずだし、恋愛だって過去にしたかもしれないし、人生のどこかでなにかに悩んだかもしれないし、また仕事場でのやりとりもあるはずかもしれないんですが、そういったもろもろのるきさんにまつわる社会関係や人間関係、るきさん自体の〈歴史性〉にまったく興味をしめさず、ただたんたんとるきさんの〈趣味・志向〉を語っていくのがこの『るきさん』というマンガの語り手です。
だから、ここにはいわゆる〈家族〉や〈恋愛〉といった社会を構成する要素が語られることはなく、るきさんがるきさんとしてなにをかんがえ・どう行動したかが語られていくことになります。
たとえば、浴室で一日暮らしてみるのはどうだろう、とおもうのもるきさんがるきさんに対しておもうるきさんのことです。
『チボー家の人々』を読み続ける『黄色い本』もそうだと思うんですが、高野文子マンガの人物は基本的に〈家族〉や〈恋愛〉といったようなすでにできあがっている既成の概念にたよりません。ではなににたよるかというと〈趣味・志向〉です。〈趣味・志向〉がまるでイデオロギーのように人物を駆り立て、生きる力に導いていきます。
だからといってその〈趣味・志向〉を使って、さまざまなひとと出会い、成長し、〈立身出世〉していくような教養物語的な語りにおもむく気配はまったくありません。
であわないし・劇的に成長しないし、変化をとげることもない。
そういった〈趣味・志向〉が〈趣味・志向〉としてだけ成り立っている世界がぎゃくに高野マンガのおもしろさなんではないかとおもうのです。
物語の欲動からすれば、だれかにであいたくなるし、だれかとつながりたくなるし、成長したくなるし、変化したくなる。しかし、高野マンガでは、そこをぎゃくに〈趣味・志向〉としてとどまることをつらぬくことで、〈趣味・志向〉を物語の従属としてしまうようなありかたを逃れています。
『るきさん』や『黄色い本』というとてもシンプルなタイトルにあらわれているように、「るきさん」や「黄色い本」という〈翻訳〉できないような素っ気なさをあえてつらぬくことが高野マンガのひとつの特徴ではないかとおもうんです。
それはおそらくマンガがだいすきなひとほど効いてくるやり方だったような気がするんです。マンガ文法をさかなでするようなやり方だったので。