鮎喰響も平手友梨奈も場所を選ばないということなんだな... | 超絶メタアナリシス

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☆☆☆ 都心(台東区)在住です ☆☆☆

昨日、『MステウルトラFES』で坂道シリーズが計5曲を披露しました。

 

が、最後まで、何も起こりませんでしたね。

 

私が、3日前、そして昨日の記事で書いた可能性は蚊ほども実現はしませんでした。

 

結局、今は、映画『響-HIBIKI-』の宣伝期間ということなんでしょうか...

 

そう考えればすべて納得できます。つまり、映画(『響』)の影が薄くなるようなことは何もしないよ、と。

 

映画の存在感を薄くするニュースは何も打たないよ、いう意味です。

 

 

 

 

よって、次の日曜日の「欅・名古屋全握」も、何も発表はなさそうに思います。

 

う~ん...

名古屋に行くか行くまいか迷うなぁ~...

 

でも、平手信者の方なら迷いなく参戦でしょうね。

 

昨日のMステウルトラFESの『二人セゾン』では、腕をケガしていることをのぞいて考えても、ここ最近、内面が少し変わったということが改めて感じられるパフォーマンスが出ていました...

 

 

 

 

 

 

 

 

もう、昔みたいに、がむしゃらにダンスに挑戦しようという路線は取らないんでしょうね。


ファンの人が流した『二人セゾン』リリース時期の過去の映像(↓)と比べると、明らかに大きく変わっています。

 

 

でも、劣化でもないし、手を抜いてるわけでもないということだよね。

 

知ってる人は知ってるということだけど、これが、平手友梨奈の「今」ということなんだと...

 

だから、昔のようにしないというよりは出来ない...

 

昨日の姿が今の心境のありのままなわけで、それをもし変えたら作為(=真実を変える、つまりウソをつく)ということになるから...

 

映画で演じるに当たって、「演技というのはウソをつくことだと思っています」と月川監督に最初に疑問をぶつけたということが各種雑誌(『日経エンタテインメント』,『FLIX』など)のインタビュー記事に掲載されていますが、そういう想いが心の中にある以上、ステージの上であっても今の心境しか出さないというわけだ...

 

改めて、平手友梨奈は鮎喰響に似ているな、と感じます...

 

なので、”平手友梨奈”という人間の成長を見届けるという意味では、この先の名古屋と幕張の全握のパフォーマンスもまた必見かも...

 

「そのとき」、しか無いわけですからね。

 

 

 

 

 

結局、欅坂46というグループに関しては、大箱ライブだからとか、千秋楽だとか、共和国だからとか、テレビの生放送だとか、そういうのは一切関係ないと思うんだよね。

 

要するに、欅坂46(漢字欅)というグループには不動のセンターとして平手友梨奈が存在しているわけですが、その彼女が、場所など考えずに、♪やりたいことをやるだけさ~、♪ありのままで~、でパフォーマンスするのだから、それにグループ全体が引っ張られるのだということ。

 

ちょうど響の主人公である鮎喰響が、芥川賞&直木賞の表彰式の場だからとか、単なる部室だからだとか、相手が有名作家だからとか、あるいは学校の屋上だからとかといって自分を変えることがないように、平手友梨奈という人間もまた同じ...

 

そのときの平手友梨奈が、場所に関係なく、常にありのままに出るわけです。

 

そして、どうしてもそれに全体が引っ張られる...

 

つまり、そのときそのときに何が起こるかわからない、それも秋元康氏や運営ですらわからない、そういう意味でのホントのサプライズが、いつ起こるかわからないワクワク感がこのグループにはあります。

 

だから、理想をいえば、すべてを見ておくべきなんだろうなぁ...