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光の天地 《新しい文明の創造に向けて》

現代文明の危機的な状況に対して、新たな社会、新たな文明の創造の
必要性を問う。

【新しい文明のビジョン(小説編)(P-17)】
 
                                         『無上の町』(第3巻)
                                       真珠の飾りを着けた都の果てに
 
                                                 《連載第 17 回》
 
「私の苦悩は、信仰を捨てたときよりも、大きなものになっています・・・・」
 有田は、テーブルの椅子に腰をかけようとしている神父に向かって言った。
「どうしてこうなるのか、私にはわからないのです・・・・信仰を持たない者の方が、気楽そうに、私の
目には映ります。神を否定することはできません。結局、自分を責めるしかないのです・・・・かつては、
信仰のためには、命を捨てることも厭わないと思っていた時期もありました。今は家庭が大事です。
十二使徒は、家も、家庭も、財産のすべてを捨ててイエス様に従いました。わたしについて来たい
者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさいと、イエス様は言われました。この
イエス様の言葉が棘のように、まだ私の胸元に突き刺さっています。かつて私もまた、十二使徒の
ようにイエス様に従う者になりたいと願った者なのです。それが今では、家庭のこと、食べること、着
ること、仕事のことに思い煩う毎日なのです。東京には、数百万という会社がひしめき合っています。
新しい会社が雨後の竹の子のように設立されては、それと同じだけの会社が倒産しては消えていき
ます。今の会社が来年もあるという保障はどこにもありません。私は恐ろしいのです。生活に対する
不安だけでなく、いつか戻ろうと思いながら、どんどん信仰から遠ざかっていく自分が・・・・」
 有田はふと言葉を切って、集会室の壁に掛かっている時計を見上げた。
「有田さん、この部屋の使用に時間制限はありません。言いたいことがあれば、何なりと遠慮なくお
っしゃってください」
 神父は頻りに時計を気にしている有田を、微笑みながら見つめた。
「すみません、神父さん・・・・愚痴めいたことばかり申し上げて・・・・」
「気にすることはありません。これが私の仕事なのですから・・・・信者さんの中にも、仕事が忙しくな
れば、教会から足が遠のきますし、職を失って都会へ出て行って、信仰から離れていった人も沢山
います。有田さんの場合は、ちょっと事情が違いますが・・・・」
 神父は笑いながら湯吞茶碗を手に持った。
「今、東京では、不況のせいか路上生活者の姿がいたるところで見受けられるようになりました。公
園や河川敷などにテントを張って生活するホームレスの人たちは、私の学生時代からいましたので、
目新しい光景ではないのですが、働くようになってからは、他人事とは思えないほど私の関心を引く
ようになりました。毎週、日曜日になると、教会や慈善団体の人たちが、公園で炊き出しを行ってい
ます。その順番を待つ長蛇の列が、日を追うごとに伸びていくのです・・・・」
 有田はゆっくりとグラスを持ち上げて、一口水を飲んだ。
「たしかに、仕事のない人に職の斡旋をしたり、家のない人に住宅の世話をすることは、政治の仕事
で、宗教の役割ではないかもしれません。しかし、働くようになって、何年もの間、職探しに明け暮
れて、まともな仕事にさえありつけない現実を目の前にして、たった一つのパンを得ることの困難さ
を身に染みて痛感しました。食べること、飲むこと、着ることよりも、神の国を求めなさいということが
聖書の教えです。パンよりも、神の言葉を・・・・しかし、飢えを前にした人々にとって、パンより神の
国を優先する聖書の教えがどういう意味を持つものなのか、私にはわからなくなってしまったのです。
日々の糧を与えて下さいという主の祈りは、何よりもまず神の国を求めなさいという教えと、どう結び
つくものなのでしょうか・・・・」
 有田はテーブルを見つめたまま、ふうっと大きな息を吐いた。
「聖書の教えは、決してパンを否定しているわけではありません。パンと神の国の優先順序を問題
にしているわけでもありません。人間は食べなければ生きてはいかれません。それは事実です。け
れども、パンを得て、人間は何を得ることができるでしょう。飢えを解消することはできるかもしれま
せん。生き長らえることはできるかもしれません。それで何が得られるでしょう。たとえ、生涯生きて
いかれるだけのパンを得ることができたとしても、最後に行き着くところは死です。誰もこの死から
逃れることはできません。聖書が否定しているのはパンではなく、どんなにパンを得て生を長らえた
としても、死から逃れられない肉としての生そのものなのです」
 神父は穏やかな眼差しで有田を見つめた。
「神父さんのおっしゃるように、人間は食べなければ生きてはいかれません。しかし、たとえパンを
得て、生活の基盤を築き上げることができたとしても、もう、私には以前のような信仰に戻ることは
できないのです。なぜなら、パンを優先させたことで、パンより神の国を優先させなければならない
聖書の教えに背いたことになるからです・・・・」
「たとえパンを優先させたとしても、神はその人を責めることはないでしょう。けれども、もし、パンを
優先させるだけなら、その人は聖書の中の救いを見出すこともないでしょう。パンによって得られる
ものは肉の生であり、肉の中にあるのは死です。死すべきものとしての肉の中に救いはないからで
す。救いとは、その人が何を必要としているかによって決まるわけではなく、何を求めるかによって
決まってくるのです」
「聖書の救いは、神の国であることはわかっていました。しかし、目の前にパンがない現実に直面し
た時、わたしの信仰は揺らぎはじめました。信仰でパンが得られるわけではないからです。たった一
つのパンを得るために奔走していると、焦燥と不安の中で、いつしか信仰のことを顧みなくなってい
る自分に気づかされるのです・・・・」
「肉としての生を捨てて、霊として生まれ変わることで、死から永遠の命への道が開け、イエスの十
字架への信仰も生まれてきます。しかし、それは信者であるなら誰もが知っている、通り一遍の教
義上の救いにすぎません。実際には多くの信者の間でも、今、有田さんが苦しんでいるように、パン
と教えとの相克に、肉と霊との葛藤に苦しんでいるのが現実なのです」
「なぜなのでしょう・・・・信仰を持っていた時は、パンと教えの相克に苦しみました。しかし、信仰を捨
てたからといって、その苦しみから逃れられたわけでもありません。それどころか、パンを得るため
の、現実の生活の苦しみが日々募っていきました。この生活の苦しみから逃れるために、信仰に、
戻ろうとしても、もう、私にはその信仰にも戻ることができないのです。なぜなら、聖書の教えはパン
を得るための教えではないことを知っているからです・・・・」
 有田は両肘をテーブルの上に置いて、組んだ手を額に押し当てた。
「信者の中には、経済的に余裕があって、生活に安定した人の中にも、教会に足繫く通い、慈善活
動にも積極的に参加している人もいますが、そういう人はまれです。生活に余裕ができさえすれば、
もう、それほど信仰を重視する必要はないと考える人が大半です。逆に、仕事が忙しくなると、教会
から足が遠のくのが普通なのですが、そういう人の中にも教会に足繫く通う人もいます。けれども、
その信者の祈りは、すべてが日々の糧を得るための祈りなのです」
 時折、蛍光灯からジーという電子音が漏れてきた。言葉が途切れると、密閉した室内にその音だ
けが耳に入ってきた。
「パンを得るために祈ることは、間違いなのでしょうか?・・・・」
 有田は怪訝そうに神父の顔を見つめた。
「有田さん、あなたは誤解しています。主の祈りの、『わたしたちに必要な糧を今日与えてください』
という糧とは、パンを意味するものではなく、あくまでも霊です。ほとんどの信者も誤解していますが」
「それはわかります・・・・しかし、多くの人が霊よりも、パンを必要としているのではないでしょうか?」
「主の祈りとは、人間の願いをかなえさせるための祈りなのではありません。なぜ、イエスが人間に
祈りを授けたのか?もし、自分の願いをかなえるための祈りなら、イエスに授けられる必要はないで
しょう。祈ることは、その人の自由です。主の祈りとは、人間の願いをかなえるためではなく、神の願
いをかなえるための祈りなのです。人間は神の願いが、神の目的が何なのかがわかりません。その
神の願いを知らせるために、その神の願いを、人間の願いと一致させるために、イエスを通して人間
に授けられたのです」
 神父は微笑みながら、テーブルの上で両手を広げて肩をすくめた。
「神の願いとは、すべての人に御名が崇められることではないでしょうか?・・・・」
「誰が、誰のために祈るのでしょう?・・・・」
「人間が、神の願いが成就されることを祈るのではないですか?」
「祈りには、二つの種類があります。一つは自分のための祈りで、もう一つは他人のための祈りです。
他人のために祈る場合は、病気をしている人とか、不幸に遭ったような人のために祈る場合があり
ます。健康な人が病気の人に祈ることがあっても、病気の人が健康な人に祈ることはないでしょう。
神は完全な存在です。人間は不完全な存在です。不完全な存在である人間が、完全な存在である
神のために祈ることがあり得るでしょうか?完全な存在である神が、不完全な存在である人間に、
自分のために祈ることを要求することがあるでしょうか?」
「では、誰のために祈るのでしょうか?」
「もし、自分のために祈るとすれば、その願いをかなえるために、ただ祈るだけではなく、あらゆる努
力が必要となります。しかし、完全な存在である神のために祈るとしたら、人間はそのために、いか
なる努力も必要とはししません。何の努力も伴わない祈りに、どんな意味があるでしょう。主の祈り
とは、神の目的である神の国へ人間を導くために、すべての人間に神の国へ向かう努力をさせるた
めに授けられたものなのです」
 
                       (以下次号)