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光の天地 《新しい文明の創造に向けて》

現代文明の危機的な状況に対して、新たな社会、新たな文明の創造の
必要性を問う。

【サムエル神父の聖書講座(P-5)】
 
                        『サムエル神父の聖書講座』
                          『無上の町』(番外編)
 
 
                   「信仰とは何か?」
 
                   1.信仰の義と行いについて
 
旧約の信仰は、肉のための信仰です。律法の行いによって神に義とされ、肉としての生活が保障
されます。新約の信仰は、霊のための信仰です。けれども、われわれはその霊というものがどういう
ものなのか、直接目で見たり、触れたりすることはできず、人間の認識能力ではそれを確認すること
ができません。
 
野球を覚える場合には、野球の本を買って学ぶだけでなく、実際にグランドに行って、練習すること
が必要になります。しかし、霊はどんなに努力しても得られるものではなく、神の恵みや賜物以外に
はありません。われわれ人間の中には、すでにその霊が宿っているという、イエス・キリストの教え
を信じる以外にはありません。これが行いによってではなく、信仰によって義とされると言った、パウ
ロの言葉の意味なのです。
 
このパウロの信仰の義と行いの間には、新約の信仰と、旧約の信仰との違いが存在しており、同じ
信仰の中の行いの有無を問題にしているわけではありません。もし、この信仰を肉のための信仰と
解釈すれば、神を信じて祈りさえすれば、何の行いも努力もしなくても、神はなんでもその望みをか
なえてくれる、というような解釈になってしまいます。もし、そのように解釈すれば、その信仰の器の
中には、霊も律法も入っていない、異邦人と同じ信仰になってしまうことでしょう。
 
では、イエスが、「互いに愛し合いなさい」、と新たな掟を定め、パウロも、「愛は律法を全うする」、と
語っているように、イエス・キリストの信仰によって肉から霊に生まれ変わったのであれば、愛の行
いだけで、律法の行いは必要なくなるのでしょうか?
 
パウロはこの愛について、
「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は律法を
全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、
『隣人を自分のように愛しなさい』、という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。愛は
律法を全うするものです」(ローマ13-3)、と語っています。
 
しかし、パウロはどんな律法の掟があっても、そのすべてが隣人愛の掟に要約されると言っている
だけで、隣人愛の掟を行えば、他の律法の掟は行わなくてもよいと言っているわけではありません。
もし、そのように解釈すれば、隣人を愛すれば、姦淫するな、殺すな、という掟は守らなくてもよいと
いうことになってしまいます。隣人を愛するなら、その隣人を姦淫したり、殺したり、隣人の物を盗ん
だりすることはできないでしょう。隣人を愛するなら、他のどのような律法の掟であろうと、犯すことが
できなくなります。別の言い方をすれば、他の律法を守ることができなければ、隣人を愛することは
できないということにもなるでしょう。
 
では、われわれはこの律法のすべてを守らなければならないのでしょうか?
 
律法は今から何千年も前のイスラエルの民族に神が与えた掟であり、現代のわれわれの社会から
見れば、風俗も習慣も違うため、守ることができない掟が沢山含まれています。十戒などのように、
現代社会にも通じるような掟もあり、そういう掟だけ守れば、それ以外の掟は守る必要はないと考
える人も沢山おられるでしょう。
 
それは間違いではありませんが、必ずしも正しいとも言えないでしょう。なぜなら、必要ないのであ
れば、聖書のその部分だけハサミで切り取ってもかまわないということになってしまうからです。
 
聖書は歴史的な事実に基づいて書かれた書物です。ですから、律法に限らず、現代のわれわれの
社会とは相容れないような、理解し難い出来事や、矛盾する言葉が沢山出てきます。しかし、聖書
には神の教えという、真理としてのもう一つの側面があります。その真理としての側面から見れば、
どんなに矛盾しようと、たとえ一点一画たりとも切り捨てる言葉は存在しません。
 
律法もまた同じです。イエスはこの律法に関して、「すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、
律法の文字から一点一画も消え去ることはない」、と語っていますが、これが真理の側面から見た
律法を意味しています。しかし、真理だからといって、現代の社会に合わないような掟を、字義通り
守ろうとするのもまた、正しい見方とは言えないでしょう。
 
例えば、ある町の外れに深い崖があって、そこから落ちれば大怪我をするか、死んでしまうような
崖だったため、町の役人がその崖の手前にロープを張って、そのロープの先に行くことを禁止した掟
を定めたとします。そのロープは、崖の一メートル手前だとあまりに余裕がないので、十メートル手前
に張ってありました。ある時、母親がまだ幼い子供が、ロープをくぐり抜けて崖の方に歩いて行くのを
見て、あわてて自分もロープをくぐり抜けて、子供を助け出しました。しかし、それを監視していた役
人が、掟を犯したといって、その母親を逮捕してしまいました。それは正しい判断と言えるでしょうか。
 
イエスは多くの難病を患っている人たちを癒しましたが、ある安息日に病気の人を癒した時、それを
見た律法学者やファリサイ派の人たちが、律法を犯したといってイエスを訴えようとしました。その時、
イエスは、「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で
引き上げてやらない者がいるだろうか」、と言いました。律法学者やファリサイ派の人たちは、律法を
ただ字義通り解釈するだけで、その裏側にある真理を理解していないと言えるでしょう。
 
聖書は歴史的な事実に基づいて書かれた書物ですが、その事実の裏側に真理が隠されています。
しかし、この事実と真理は、全然違うものだとは言えませんが、同じものでもありません。
 
例えば、まだ学校に上がる前の子供が、母親から算数の足し算を教えてもらった時に、1+1=2と、
1+2=3と、2+2=4の三つの足し算を教えられて覚えることができました。けれども、小学生の兄
が来て、2+3=5だと教えられた時、弟はそれは間違いだと主張しました。なぜなら、母親から教え
もらったノートには、三つの足し算しか書かれていなかったからです。弟は母親から教えてもらった
三つの足し算は、事実と認識しただけで、まだそれを真理として認識するには至っていません。
兄の方は小学校で足し算を習って、それを真理として認識していますから、自分で何通りもの足し算
の数式を作り出すことができます。
 
これが聖書を事実として、字義的に解釈した場合と、真理として解釈した場合の違いといえるでしょ
う。聖書を字義的に解釈する人は、聖書に書かれている律法をすべて守ろうとするか、或いは、その
掟が現代社会と相容れない部分は、守る必要はないと主張しますが、真理として解釈する人は、足
し算の数式をいくらでも作り出すことができるように、時代環境が変わっても、その時代に基づいた
掟を自由に作り出すことができるようになります。
 
イエスは、安息日に病気の人を癒した時に、律法学者やファリサイ派の人たちに対して、「安息日に
律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、滅ぼすことか」、と問い
かけています。
 
「善を行うこと」、「悪を行わないこと」、これが全律法の主旨であり、「命を救うこと」、「滅びないこと」
これが全律法の目的であり、この四つの言葉の中に、律法の真理が集約されていると言ってもよい
でしょう。そして、われわれの現代社会の、すべての国の憲法や法律の精神もまた、この律法の精
神と何ら本質的な違いはないと言えるのではないでしょうか。
 
真理から見た律法は、体と心の二つの側面を持っていますが、旧約の律法は、主に体に対する掟
が主眼になっています。しかし、イエスはこの律法について、「あなたがたの義が律法学者やファリ
サイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」、と語
っています。これは、どういうことを意味するのでしょうか?
 
                        (以下次号)