賢治の村(P-44) | 光の天地 《新しい文明の創造に向けて》

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現代文明の危機的な状況に対して、新たな社会、新たな文明の創造の
必要性を問う。

【賢治の村(P-44)】
賢治の『農民芸術の興隆』には、ビューヒナーやトロッキーなどの革命家の名前が上げられてい
ますが、賢治が生きた十九世紀末から二十世紀前半は、1904年に日露戦争が勃発し、1911年に
は中国で辛亥革命が起こり、1914年には第一次世界大戦、1917年にはロシアで十一月革命が起
こるなど、正に革命や戦争の時代でした。
 
賢治の作品の中には、「サキノハカといふ黒い花といっしょに/革命がやってくる」という詩や、「新
たな時代のマルクスよ/これらの盲目な衝動から動く世界を/素晴しく美しい構成に変へよ」という
詩や、「きみたちがみんな労農党になってから/それからほんとのおれの仕事がはじまるのだ」と
いった、革命や社会主義運動に関連する詩あり、賢治自身も1926年に労農党の支部が花巻に設
立された際に、その設立に協力したことが知られています。
 
ロシアでは1917年に労働者や兵士らが蜂起した三月革命でニコライ二世が退位して帝政が終結
し、レーニン・トロッキーらが起こした十一月革命の武装蜂起によってソビエト政権が樹立されて、
1922年には世界初の社会主義国家が誕生しています。
 
またドイツでは、1918年に勃発したドイツ革命によって帝政が崩壊して、ドイツ共和国が成立して
います。ビューヒナーがドイツで始めて革命運動に身を投じたのは、このドイツ革命から84年前
の1834年のことでした。
 
ビューヒナーの生きた十九世紀前半は、十八世紀後半に起こったフランス革命の影響で、革命や
独立運動などがヨーロッパ各地で発生した時代でしたが、1830年にはフランスで七月革命が起こ
り、1833年にはドイツで急進派が蜂起するフランクフルト事件が起こるなど、ビューヒナーの最も
身近なところでも革命運動が発生しています。この時代の潮流を受けてビューヒナー自身もまた
革命運動に参加していくことになります。
 
ビューヒナーは1831年にフランスのシュトラスブルク大学医学部に入学して2年間をフランスで過
ごした後、1833年に故郷のドイツに帰ってギーセン大学医学部に入学します。そして、そのギーセ
ンで彼は、数十名の仲間と共に「人権協会」という秘密結社を結成します。
 
そこでビューヒナーは農民の蜂起を促すための檄文、『ヘッセンの急使』を書き上げ、仲間内で印
刷してヘッセン地方の村々の農民に配布しますが、間もなく仲間の一人が逮捕され、ビューヒナ
ー自身も下宿を家宅捜索されるにおよんで逃亡を決意し、一旦郷里のダルムシュタットに帰った
後、翌年の1835年にフランスに亡命します。このダルムシュタットの滞在中に、亡命資金を得るた
めにわずか五週間の間に書き上げ、ドイツの批評家カール・グッコーあてに送ったのが、彼の代
表作となる『ダントンの死』という戯曲でした。
 
ビューヒナーは、現代では彼の名のゲオルク・ビューヒナー賞がドイツで最も権威のある文学賞
になっていますが、彼の残した四つの作品のうち生前に発表されたのは『ダントンの死』だけで、
この戯曲が舞台で上演され、評価されるようになったのも20世紀に入ってからでした。
 
このゲオルク・ビューヒナー賞の受賞者には、ギュンター・グラスやハインリヒ・ベルなどのノーベ
ル賞作家やパウル・ツェランなどの詩人がおり、特にパウル・ツェランの詩の中にあるナチスの強
制収容所での体験を描いた「死のフーガ」と題する詩は、戦後を代表する詩の一つと言われてい
ます。「あけがたの黒いミルク僕らはそれを夕方に飲む/僕らはそれを昼に朝に飲む僕らはそれ
を夜中に飲む/僕らは飲むそしてまた飲む/ (中略) /彼は口笛を吹いて自分のユダヤ人どもを
呼び出す地面に墓を掘らせる/彼は僕らに命令する奏でろさあダンスの曲だ/(後略)」
 
ビューヒナーの『ダントンの死』は1789年に起こったフランス革命を題材としていますが、彼がギー
セン大学の学生だった時に、革命運動のためにフランス革命に関する歴史書を読んだことがこの
戯曲が生まれる要因となっています。
 
革命当時のフランスは国王が政治的権力を握る絶対王政下で、人口の約数パーセントを占める
免税特権の与えられた貴族階級が、人口の9割以上を占め、そのうちの大半を農民が占める平
民階級に対して、重税を課して搾取する社会構造になっていましたが、たび重なる戦争と宮廷の
浪費で悪化した国家財政を打開するために、国王が議会を武力で弾圧しようとしたことをきっか
けに、民衆が蜂起したのが革命の始まりになっています。
 
そして、この革命によって、すべての人間の自由・平等や主権在民等をうたった「人権宣言」が採
択され、憲法を制定して絶対王政から立憲王政へと移行し、さらにこの憲法に則って実施された
普通選挙に基づいて招集された議会によって王政から共和制へと移行します。しかし、この議会
内部で、ジロンド派やジャコバン派、エベール派などの党派が自派の主義・主張を巡って対立し、
反対派一派を次々に断頭台で処刑するなど、激しい派閥抗争が繰り広げられることになります。
 
ビューヒナーの戯曲『ダントンの死』は、このフランス革命の1794年当時のロベスピエールとダン
トンとの派閥抗争を描いており、歴史的な背景はほぼ史実に基づいた内容になっています。この
戯曲はロベスピエールが反対派の一つである過激派のエベールを処刑した直後から始まります
が、ロベスピエールはもう一つの反対派閥である寛容派のダントンをも排除しようともくろんでい
ます。
 
この戯曲の中でロベスピエールは、「もしエベールが勝利を収めていたら、共和国は混乱状態に
陥っていたろう、そして専制主義は胸をなでおろしたことだろう」と、エベールを処刑したことの正
当性を主張しますが、ダントンらの寛容派に対しても、その妥協的な政策の誤りを非難します。
「この一派は前の分派の連中とは正反対だ。やつらはわれわれを弱気に弱気にと追い込んでゆ
く。やつらの合い言葉は慈悲の情をもて!だ。やつらは民衆から武器と武器を取る手を奪いとろ
うとしている。そして裸で骨抜きにされた民衆を国王どもに引き渡そうというのだ」
 
ロベスピエールは歴史上では反対派を次々に粛清して恐怖政治を行った、独裁者としてのイメー
ジが定着していますが、その素顔は謹厳実直で禁欲的な生活をし、封建領主権を廃止して農民
に無償で土地を分配するなどの急進的な改革を行っており、劇中でも、「王党派の人々にも恩赦
を与えよ、とある連中は叫んでいる。悪党を憐れめというのか?否である。罪なき者を憐れみ、弱
き者を憐れみ、不幸な者を憐れみ、人類を憐れむのだ!」と、自らの信条を述べています。
 
一方、ダントンの方は、厳格な道徳や急進的な改革には反対の立場で、ロベスピエールと真っ向
から対立し、その信条の違いでロベスピエールとの間で激しい議論を展開します。
 
ロベスピエール:「社会の革命はまだ終っちゃいない。革命を中途半端に終らせるやつは、自分の
      墓穴を掘ることになるんだ。昔のよき社会ってやつはまだ死に絶えてはいない。歓楽を
      つくした階級に代って健全な民衆のエネルギーが現れてこなければならない。」
ダントン:「まったく君のその道徳ときたらさ、ロベスピエール!君は袖の下を取らない、借金もしな
      い、女と寝たこともない、いつもきちんと上衣を着て決して泥酔もしない。ロベスピエール
      君は腹が立つほど立派だよ。」
ロベスピエール:「僕の良心は清浄潔白だ。」
ダントン:「良心てものは猿がそれを見て身もだえする鏡のようなものさ。誰だってできる限りはわ
      が身を飾り立てて、それで自分なりに満足したいと努力するものさ。」
ロベスピエール:「君は道徳を拒否するんだな?」
ダントン:「悪徳も拒否するよ。世の中は享楽主義者しかいないんだ。」
 
この数日後にダントンは、ロベスピエールらの公安委員会に逮捕され、かつてダントン自らが反
対派を処罰するために設置した、革命裁判にかけられて処刑されます。
 
どんな時代であろうと、いかなる状況におかれようとも、暴力それ自体を善であると言い切ること
はできないでしょう。他人からの侵害に対して止むを得ず犯した暴力は、法律上は正当防衛とし
て処罰の対象にはなりませんが、罰せられないからといってその暴力が善になるわけでもありま
せん。しかし、この論理をあくまでも正とするならば、国家の人民に対する貧困や戦争という人権
侵害に対抗して、その侵害から生存を守るための人民の国家への暴力もまた正としなければな
らなくなります。そして、それがフランス革命という暴力革命の正当性の主張にもなっています。
 
つまり、真に問題なのは、その暴力の是非や正当性の問題なのではなく、暴力を用いなければ
人民を無視した独善的な支配体制からの解放を得ることができないほどの、貧困や戦争、享楽
主義を助長させる独裁政治こそが悪なのだということになるでしょう。