◆ 人種平等案の否決と排日移民法
昭和天皇の今一つの指摘であった、パリ講和会議における人種平等案の否決も、かうした時代背景と切り離して考へることは出来ない。
第一次大戦末期の一九一八年(大正七)、米国大統領ウィルソンは民族自決と人種差別の撤廃を含む「十四力条」を発表し、その中で民族自決主義と国際平和機構(国際連盟)を提唱した。
日本は米国提案に応すべく、第一次大戦後のパリ講和会議に全権団を送り込み、国際連盟委員会に人種平等案を行った。
この日本側提出の人種平等案は、これまで欧米植民地体制の下で呻吟していたアジア・アフリカ諸民族や、アメリカの黒人の間に深い感銘を与へ、石井菊次郎駐米大使や牧野伸顕のところには、感謝や激励の手紙や電報が殺到したといふ。
例へば全米黒人新聞協会は、次のやうなコメントを発表して、日本側全権団に対する熱烈な期待を表明している。
「われわれ黒人は講和会議の席上で『人種問題』について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである」
「全米一二〇〇万人の黒人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」。
人種平等案に対してオートスラリアなどは強硬に反対を唱へたが、各国代表に対する日本側の粘り強い説得と交渉が実つて、一九一九年四月十一日に行はれた国際連盟委員会の最終票決は、十一対五で人種平等案が過半数を刺する結果となった。
だが、あらうことか議長のウィルソンは、“全会一致”でないといふ理由で、これを否決したのである。
ウィルソンの提唱した「民族自決主義」が、結局は欧米人だけの民族自決主義に他ならず、白人以外の黄色人種や黒人には適用されないといふことが、かうして国際連盟発足当初から、早くも暴露されたのであつた。
日本人の失望・落胆には、甚だしいものがあった。
例へば占領下に発表され、占領軍の事後検閲によつて不許可にされた次の文章にも、そのことは明らかに看て取れる。
不許可理由は、「合衆国批判」。
米国の大統領アブラハム・リンカーンの奴隷解放の計書は実に其の動機を人格平等観に発したものの様に思はれる、彼の黒奴の醜い皮膚の色は此の大いなる民主々義の平等観を少しも汚す事が出来なかった。
然るにかつて此の偉人を有した国家の代表者が仏国のヴェルサイユ世界改造の合議に於て吾れの提議に係る人種差別撤廃を一蹴し去ったと言う事はリンカーンの偉業に対して頗る醜いコントラストである。
人種差別撤廃案は正しく人格平等案に立脚するものであり。正義人道の精神に立脚するものである。
然るに平素人格の平等を語り正義人道を口にして止まぬ国民の代表者がこのような態度に出でた事はここに至って極れりと言うべきである。
日本の主張したこの人種間の完全平等を欧米が拒絶し、人種差別の続行を宣言した時、日本は欧米人種の側に立つのか、それとも有色人種の側に立つのかといふ、国家の進路の根幹に係はる重大な選択を迫られていたと言へるだらう。
政府は未だ、両者の狭間で揺れていた。
だが、心ある国民にとって、日本が虐げられた有色人種の側に立つといふことは自明の理であった。
大東亜戦争勃発時に、市井の一日本人が次のやうに詠んだのは決して偶然ではない。
皮膚黄なる人種さげすみ百年の搾取の拠点一挙に屠れ
大東亜戦争の遠因が排日移民法にあったといふことを、実は戦後になって指摘した米国人は相当あったらしい。
だが、そのやうな歴史観は次例の示す通り(「合衆国批判」により不許可)、占領軍によつて隠蔽されたまゝ六十年、この国の教科書などにはつひぞ現れた例がないのである。
それでは戦争の原因は何かというと、それはパールハーバーであったというのは余程どうかしている人でなければ[米国人でも]いわない、…
(中略)
彼らは彼らとしての私は反省があるのではないかと見てとりました。
すなわち一九二四年、日本が非常な屈辱を感じた移民法が通過したこと。
日本の移民を米国からシャットアウトした。
これがアメリカでは日本人の顔を平手打ちをしたんだ。
これ程の侮辱は日本になかったんだ。
これがもととなって日本の軍国主義はカを得たんだ。
これがもととなつて日本は超国家主義にいったんだ。
こういう見方をしておるのであります。
今日われわれは軍国主義、超国家主義というものを排除しなければならぬといっている時にアメリカでは進歩的ないろいろな研究が進められておるのでありまして、…これが先ほど話をしました移民法改正の実は本当の動機です。