◆ 米国によるフィリピンの領有

 マハンの海外膨張の思想は、一八九七年、米国の太平洋進出に格好の論拠を提供することになった。

 

 現下のハワイ紛争は、めざめつつある東洋文明の力と西洋文明の力との間の、きたるべき大闘争の前哨戦にすぎない。

真の争点は、“太平洋の鍵”を支配して優位を占めるのがアジアか、それともアメリカか、ということなのだ。

 

 当面の米国の最大の関心は、支那市場の獲得といふ一点に集約されていた。

こゝからハワイの次なるターゲットとして、フィリピンが大きく浮上してくるのである。

フィリピン領有論の急先鋒は、マハンの最大の理解者であったセオドア・ルーズヴェルト(当時海軍次官補)であり、歴史家ではブルックス・アダムス(後にルーズヴェルト大統領顧問)であった。

占領下で削除された文章の中にも、次のやうなものがあり、このことを裏書きしている。

削除理由は「連合国批判」

 

 …それにしても想いあたるのは、今から五十年も前、「中国市場確保のためマニラを支配することは必須条件であり、アメリカの極東政策はマニラを中心とし太平洋を内海化するつもりで強行さるべきである」と叫んだ歴史家ブルックス・アダムスの言葉であり、それが現在なお米比関係について有する妥当性である。

 

 だが、ハワイ併合に次ぐ、米国の太平洋進出の第二段階を成したこのフィリピン領有についても、日本なしでは語れない歴史があったのである。
 フィリピンは一八七二年に起きたカビテ暴動を機に、三百年に及ぶスペインの植民地支配を逃れんとして、十九世紀末には急速にその民族的自覚を高めつゝあった。

これに火を付けたのが、ホセ・リサールが一八八七年に書いた小説『ノリ・メ・タンヘレ』で、この小説はスペインの植民地支配の特徴であったカトリックの教団支配の実態を、完膚なきまでに暴いたものであった。
 リサールは今の日本ではあまり知られていないが、“フィリピンの国父”として揺るぎない位置を占めている国民的英雄である。

職業は医者であったが、小説家、歴史家、芸術家でもあり、語学は二十一か国語に通じた万能の天才であった。
 日本を訪問したリサールは、おせいさんの思ひ出を胸に、後ろ髪を引かれるやうな思ひで日本を後にしたのであるが、新開発行といふ同志の依頼も断って目的地のロンドンでリサールが始めたことは、フィリピン正史の編纂といふ地味な仕事であった。

木村毅は、この事について次のやうに述べている。

 

 ロンドンでは、リサールは大英博物館にかよって、歴史の研究に没頭した。

幾種類かの古代フィリピン史を比較した上で、リサールはモルガの著書を最良と認めた。

(中略)

リサールはこれを筆写し、それに註釈をつけるのに二カ年を要した。
(中略)

リサールによれば、正確な歴史を与える事は、新聞を起こすのに劣らぬ程、フィリピン建国に大切な事に思えたのである。

(中略)

 

 スペインは、フィリピンを世界に紹介するに、マゼランの発見以前は全く文明のなかった野蛮状態であったように言う。

(中略)

リサールは…、フィリピン人は西洋との接触のない前から、決して裸体でなくて衣服を着し、政府、法律、文字、文学、宗教、芸術、科学みんな揃い、アジヤ友邦と貿易もしていた事を立証した。

この意味でリサールはフィリピン史学に基礎をおいた史祖といわれる。
 この一事は、リサールの七年前(明治十四年三月)、同じやうに日本に立ち寄ったハワイのカラカウア国王が、帰国後に始めたハワイ正史編纂事業の事を想ひ起させる。

カラカウア国王の侍臣であった米国人のアームストロングが、

「ハワイの原住民はつい最近まで、文字も知らなければ技術も持たず全くの野蛮人だった」

と日記に書きつけたやうに、スペインもフィリピン史に対しては同様の理解をしかしていなかった。

これを跳ね返すといふ事が、取りも直さず独立の第一歩になるといふ事を、カラカウア国王もリサールも、日本といふ国柄に直に触れる事によって直感的に感じ取ったのであらうか。

いづれにせよ神秘的と言ってもいいやうな、不思議な一致ではある。

 フィリピン独立運動のことが俄然一般日本国民の注目と同情を集めるのは、スペイン当局によるリサールの処刑(一八九六)後、フィリピン全土に燃え広がった独立運動によって、ようやくスペインからの独立を勝ち取ったやうに見えた(一八九九)途端に、今度は米国によってその独立を奪れた以降の事になる。

 リサール逮捕(一八九二)と同時に、その志を継いでフィリピン独立を明確に志向する秘密結社カティブナンを結成したアンドレス・ボニファシオは、リサールにも増して親日的であった。

「フィリピン人が知るべきこと」と題した彼の論文には、次のやうに書かれている。

 

 スペイン人がこの島に来る以前は、人々は豊かな幸福な生活をなしていた。

隣接諸国、ことに日本とは仲のよい関係で、あらゆる種類の品々を交易していた。

(中略)

だがスペイン人が来て、甘い言葉で我々の祖先を騙し、この地を奪ってからは、富も幸福も奪れていった。

(中略)
 我が国民よ、我々の生まれた土地を我々の手に取り戻すため、永遠の繁栄のため全精力をあげて闘おうではないか。

 

 ボニファシオは、フィリピン独立運動の支援と武器購入を依頼するため、カティブナンの幹部を日本に派遣せんとしていた矢先の一八九六年(明治二十九年)、たまたま日本の軍艦「金剛」がマニラ湾に寄港したのを幸ひ、艦長にその旨交渉したが、他国の内政に干渉は出来ないとして艦長の拒否に遭っている程である。
 反対に、カティプナンの中で次第に頭角を現してきたもう一人の指導者アギナルドは、最初から親米的傾向を有していた。

アギナルドボニファシオを反逆罪で逮捕し、軍事裁判にかけて処刑したのであった。
 親日的なボニファシオを打倒して親米的なアギナルドがフィリピン独立運動の首魁となった事は、米国にとっては都合の良い事だったが、日本のみならず、フィリピン自身にとっては不幸な事であった。

何故なら、アギナルドは同年十二月、形成不利と見るや簡単に「独立」を反古にし、スペインから八十万ペソを受け取る事を条件に、自発的に香港に亡命するやうな人物でしかなかったからである。
 

 マッキンレー米大統領が一人九七年十二月の教書の中で、次のやうに述べていた事は、我々の記憶しておいてよい事である。

「[スペイン領土の]強制的併合などは全く思いもよらぬ事だ。

それは、我々の道徳律に照して、犯罪的侵略であろう」。

それが、僅か二年後には次のやうに変るのである。

「我々のなすべき唯一のことは、フィリピン諸島をわがものとなし、フィリピン人を教育し、彼らを向上せしめ、文明化し、キリスト教化する…ことである」
 この豹変を強ひたものこそ、マッキンレーの次期大統領に就任したセオドア・ルーズヴェルトらが積極的に推し進めた、対スペイン戦争(米西戦争)だったのである。

一八九八年二月、米国の新型戦艦メイン号がキューバのハバナ港内で爆発・沈没し、将兵二六〇名が死亡する事件が起ったが、米国側はこれをスペイン側の仕業と断定し「メイン号を忘れるな」といふスローガンによって国民世論を対スペイン開戦一色に染め上げる事に成功した。

かうして先にも見た通り、内心はフィリピン領有に反対だった大統領マッキンレーさへもが、世論に屈してかつての発言を撤回せざるを得なくなったのである。
 

 同年五月、ルーズヴェルトの指示を受けた米海軍のデューイ提督は、マニラ湾のスペイン艦隊を一撃の下に葬り去るや、香港に亡命していたアギナルドに「独立運動を支接する」といふ触れ込みで接近した。

元々親米傾向のあつたアギナルドが、「決して植民地にはしない」といふ米国側の口車に容易に乗せられた事は言ふまでもない。

アギナルドは米軍艦で帰還し、対スペイン独立戦争を行う。
 五月二十四日、米国の勧めで独裁政府を樹立したアギナルドは、国民に向って次のやうに呼びかけた。

 

 フィリピン国民よ。

偉大なる北米合衆国は真正な自由の揺藍(ようらん)であり、・・・かれらは保護を宣してわれらに手を差伸べた。

これは決意に満ちた行為である。

米国は、フィリピン国民が不幸な祖国を自治する能力を持つ十分に開化した民族であると倣すが故に、わが住民にたいし微塵の私欲も抱く筈が無い。

寛大なる北米合衆国がわれらに与えた高き評価を維持する為に、われらは、この評価を低めうる一切の行為を嫌悪すべく心掛けねばならぬ。

 

 かうして、フィリピン独立に対する米軍の支持を取り付けたと信じたアギナルドは、破竹の勢ひでスペイン勢力を駆逐し、翌一八九九年一月、第一次フィリピン共和国(大統領アギナルド)が誕生した。

ここに独立は達成されたかに見えたが、何ぞ知らん、米国は前年十二月のパリ条約でスペイン側と勝手に取り引きし、フィリピンを二千万ドルで買収・割譲せしめる事に合意していたのであった。

「前門の虎、後門の狼」といふ訳で、馬鹿を見たのはアギナルド自身であった。

九九年二月、米国側の戦争挑発により、アギナルドも遅まきながら欺かれた事を認め、対米抵抗・独立戦争に踏み切るのであるが、やがて逮捕され、米国への屈従を強ひられる事になる。

この間の経緯について述べた次の文章も、米軍占領下の日本では削除を免れなかった。

(削除理由不祥)

 

 私は実は、米西戦争から引きつゞいての米比戦争は、アメリカ史の汚点だと思て、心からこれを惜しんでいる。

…フィリピンに独立を約束して、スペインに叛かせ、後でその約束を踏みにじたのだけは、弁解の余地が無いであらう。