◆ 大本営 握り潰す?  元ソ連課長「入手」と記述
 
 米英ソ三国首脳が昭和20(1945)年2月4~11日、クリミア半島のヤルタに集い、南樺太返還、千島列島引き渡しなどを条件にソ連がドイツ降伏3カ月後に対日参戦することを約束した「ヤルタ密約」。
ストックホルム駐在武官だった小野寺信氏が会談直後にキャッチし、発信したとされるソ連参戦情報は大本営や政府上層部に届いた形跡がなく、終戦に向けた当時の日本の動きをめぐる大きな謎として残されてきた。
 小野寺氏は、終戦時のソ連大使だった佐藤尚武氏が昭和58(1983)年に発表した「回顧八十年」で、本国に打電した情報が上層部に伝達されていなかった事を知った。
そして3年後に母校・仙台幼年学校の会報「山紫に水清き」に、「ストックホルム陸軍武官として、特別にロンドンを経た情報網によって、このヤルタ会談の中の米ソ密約の情報を獲得し、即刻東京へ報告した」と書いた。
 小野寺氏の妻、百合子さんもその後、産経新聞の取材や自著を通じて、「ヤルタ密約」の情報はヤルタ会談終了直後の45年2月半ば、夫の武官仲間だったポーランド人、ブルジェスクウィンスキー氏から「英国のポーランド亡命政府から入った情報」としてもたらされ、夫の依頼で特別暗号を組んで参謀本部次長(秦彦三郎中将)宛てに打電したと証言し、「機密電の行方」を追い続けた。
 しかし、この機密電を見たり、接したりしたという軍の元高官は現れなかった。
 平成元(1989)年になって、参謀本部情報部の情報将校だった堀栄三氏が「大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇」を著し、「ヤルタ会談で、スターリンは『ドイツ降伏後三カ月で対日攻勢に出る』と明言したことは、スウェーデン駐在の小野寺武官の『ブ情報』の電報にもあったが、実際にはこの電報は、どうも大本営作戦課で握り潰されていたようだ」と明らかにした。
堀氏がいう「ブ情報」の「ブ」は、百合子さんが指摘したブルジェスクウィンスキー氏を指すとみられる。
 一方、小野寺氏が佐藤元ソ連大使の回顧録により「機密電の行方不明」に気づく9年前の昭和49(1974)年、大本営参謀本部ソ連課長を務めた林三郎氏が回想録「関東軍と極東ソ連軍」の中で、「彼(スターリン)は同会談(ヤルタ会談)において、ドイツ降伏3ヶ月後に対日参戦する旨を約束したとの情報を、わが参謀本部は本会談の直後ごろに入手した」と記していた。
この記述は最近まで関係者の間で殆ど知られず、改めて「小野寺氏の機密電」との関係で注目されている。