■日米開戦 1941年(昭和16年)
 

 万死に値する日本大使館の怠慢によって真珠湾攻撃は「奇襲」となった。
 昭和十六年十二月八日、ついに日本は真珠湾攻撃を行う。

日米開戦であった。
 東京裁判では、「日本は世界に戦争をしかける密議を行っていた」と決めつけられた。

だが、当時の日本の状況はそれどころではなかった。

海軍が対米戦争の研究を始めたのは石油禁輸の問題が出てからであり、真珠湾攻撃の図上演習は作戦開始の三カ月前からようやく始まった。

まったく泥縄式であった。

にもかかわらず日本が謀議をめぐらせたかのような印象があるのは、真珠湾攻撃が「卑怯な奇襲攻撃」ということになってしまったせいであろう。

このニュースは、戦争に消極的だったアメリカ世論をいっペんに変え、日本を叩き潰すことがアメリカ人にとって“正義”になったのである。
 しかし、実際には日本はまったく奇襲攻撃をするつもりなどなかった。

日本政府の計画では、開戦の三十分前に米国務省に国交断絶の通告を渡すことになっていた。それが遅れたのは、ひとえにワシントンの日本大使館の怠慢ゆえであった。
 開戦前日の午前中、外務省は野村喜三郎大便に向けて予告電報を送った。

「これから重大な外交文書を送るから万端の準備をしておくように」という内容である。

当時はすでに開戦前夜のごとき状況であったにもかかわらず、いったい何を血迷ったのか、日本大使館の連中は同僚の送別会を行うため、夜になったら一人の当直も置かずに引き上げてしまったのである。
 運命の十二月七日(ワシントン時間)、朝九時に出勤した海軍武官が電報の束が突っ込まれているのを見て「何か大事な電報ではないのか」と連絡したので、ようやく担当者が飛んできたというから、何と情けないことか。

あわでて電報を解読して見ると、まさに内容は断交の通告である。

しかも、この文書を現地時間午後一時にアメリカに手渡せと書いてある。

大使館員が震え上がったのは言うまでもない。

緊張のためタイプを打ち間違えてばかりでいっこうに捗らないので、彼らは米国務省に約束の時間を一時間延ばしてもらうという最悪の判断をした。

結局、断交通告を届けたのは真珠湾攻撃から五十五分も経ってからのことであった。
 ルーズベルト大統領は、この日本側の失態を最大限に利用した。

「奇襲攻撃後にのうのうと断交通知を持ってきた日本ほど、卑劣で悪辣な国はない」と世界に向けて宣伝したのだ。
 いったい、彼らは外交官でありながら、国交断絶の通知を何だと思っていたのであろう。

弁解の余地はまったくない。

必要だったのは、戦後でもかまわないから本当に切腹をすることであった。

そしてそれが世界に報道されることだったのだ。
 東京裁判では、日本が真珠湾攻撃を事前に通告する意思のあったことは認められた。

だが、日本に有利な事実はなかなか世界の、否、日本人の知識にもならないのである。
   ⇒([戦争を決定づけたハルノート])
   ⇒(宣戦の詔書読み下し文はこちら])