■ アメリカが「ハル・ノート」提示 1941年(昭和16年)
日米戦争に追い込んだ英国・ロシアの陰謀とアメリカの“最後通告”。
(⇒[ハル・ノート])
慮溝橋事件に始まったシナ事変(日華事変)はずるずると拡大していったが、その一方で、日本を取り巻く国際環境はますます悪化していった。
気がつくと日本は、「ABCD包囲陣」に取り囲まれていた。
Aはアメリカ、Bはイギリス(ブリテン)、Cはシナ(チャイナ)、Dはインドネシアを植民地にしていたオランダ(ダッチ)である。
最近の研究によると、この包囲陣を画策したのはイギリスのチャーチル首相であったようだ。
第二次欧州大戦において、ドイツ軍の圧倒的な強さにイギリスは風前の灯であった。
チャーチルは「アメリカを戦争に引きずりこむしかない」と考えたが、ルーズベルト米大統領は「絶対に参戦しない」という公約を掲げて当選していたのだから、簡単に応じる筈はない。
そこでチャーチルは迂回作戦をとり、まず日米戦争が起こるように仕向け、日本と同盟関係にあるドイツとアメリカが自動的に戦う事になるよう仕組んだ。
アメリカやオランダを説得してABCD包囲陣で日本を経済封鎖し、鉄鉱石一つ、石油一滴入れないようにしたのである。
言うまでもないが、石油や鉄がなければ二十世紀の国家は存続しない。
それを全く封じてしまおうというのだから、これは日本に「死ね」と言っているに等しい。
さらに追い撃ちをかけるように、アメリカは「ハル・ノート」を突きつけてきた。
これはシナ大陸や仏領インドシナからの即時撤退、日独伊三国同盟の破棄、反日的蒋介石政権の承認など、日本政府がのめる訳が無い要求ばかりを書き連ねてきたものであった。
実質的な最後通と言ってもいい。
のちに東京裁判のパル裁判官はアメリカの現代史家ノックを引用して、ハル・ノートのような覚書を突きつけられたら「モナコ王国やルクセンブルグ大公国のような小国でも、アメリカに対して矛を取って立ち上がったであろう」と言っている程だ。
この「ハル・ノート」は実はハル国務長官の案ではなく、財務省高官ハリー・ホワイトが起草したものである事が戦後明らかになったが、このホワイトはなんと、戦後、ソ連のスパイ容疑を問われて自殺した人物なのである。
つまり、ソ連の指導者スターリンの意向を受けて日本を対米戦争に追い込む為に書かれたのが「ハル・ノート」であった。
個人同士でも、息の根をとめるほど相手を追いつめれば、どんなにおとなしい人間でも牙を剥いて反撃してくるだろう。
アメリカが、排日運動を始めてから日本に対して四十年来やってきたのは、そういう事であった。
更に、米国務長官ケロッグは、アメリカ議会における答弁の中で「国境を越えて攻め入るような事だけでなく、重大な経済的脅威を与える事も侵略戦争と見なされる」と言っている。
ケロッグの定義によれば、石油禁輸は、日本に対して侵略戦争をしかけたものである。
日本が開戦に踏み切ったのは無理からぬ事だった。