日韓併合 1910年
 

 伊藤博文暗殺によって日韓関係は予想外の方向に動いた。
 三国干渉に日本が屈したのをみて、「事大主義」(強いものにつく)の伝統を持つ韓国は、親露派が力を得、反日・侮日政策をとるようになって政情は騒然とし、日韓関係も緊張した。そこで日本政府は韓国の富国・近代化が実現するまで外交権を預かろうとした。
 明治三十七年(一九〇四)、日韓新条約が日露戦争勃発の半年後に調印され、さらに戦争終結後、協約によって韓国は日本の保護国となった(ある国が他の国を保護国にすることは、当時もいまも普通に行われている)。

世界各国もこれを了承した。

ところが、初代韓国統監となった伊藤博文は明治四十二年(一九〇九)、満洲ハルビン駅で韓国人安重根に暗殺されてしまう。
 超大国ロシアを倒した日本の元勲を暗殺してしまったのだから、韓国政府は震え上がった。日本人が激怒したのは言うまでもない。

日韓併合の議論はこうした状況から生まれ、韓国側からも政府・民間を問わず併合の提案があった。

英米の新聞も「東アジア安定のために日韓併合を支持する」という姿勢を示した。

それで日本は日韓併合条約を締結したのである。
 とはいえ、これは日本にとって大変な負担であった。

朝鮮半島が日本の領土である以上、日本軍を置かねばならない。

陸軍は二個師団の増設を要求したが、日露戦争を終えたばかりの日本にはそんな経済的ゆとりはどこにもない。

師団増設問題は大きな政治問題になった。

それでもインフラの整備や教育にも巨額の予算を割き、日本は韓国の近代化を推進したのである。
 戦後、「日韓併合は植民地支配だった」という言われ方をされてきた。

だが、「朝鮮人は被支配者ではなく同じ日本国民である」というのが当時の考え方であった。天皇直属の軍人にもコリア人がいて、中将になった人もあった。

後に韓国大統領になる朴青年は、士官学校を出て少尉に任官している。

これは当時の国際常識から見れば、例外的と言っていいほど人道的なやり方であった。

李朝の一族は王公族として皇族に準ずる扱いを受けたし、李王の世子には皇室から配偶者を出されたのである。

西洋諸国の場合、植民地の王族や酋長が本国の王室や貴族と同列に置かれ、婚姻関係を結ぶなどというのは、絶対にありえない話であろう。
 

 また、「日韓併合条約は無効である」と言うような人もいるが、昭和四十年(一九六五)、日韓基本条約が締結された時に、日韓併合条約は有効であることが両国で確認され、賠償金は日本は韓国に三億ドルの無償贈与、借款五億ドルを提供し、韓国は対日賠償を一切求めぬということになっている。

したがって、もはや“戦後補償”など持ち出す筋合いのものではない

まして「朝鮮における唯一の合法政権」として韓国と基本条約を結んだのだから、北朝鮮に対する戦後補償など、日韓基本条約の大前提をくつがえす言語道断の暴論であり、無知としか言いようのない妄言である。