■ 日英同盟の立役者 柴五郎(1860~1945年)
 明治33年に清国で義和団の乱(北清事変)が勃発した。
義和団の排外運動によって、各国の公使館員、武官、キリスト教徒避難民の総勢約4千人は、北京の公使館区域において55日間の龍城戦を余儀なくされた。
 この時、僅かの日本軍と各国の義勇隊を見事に統率、指揮して、4万人もの義和団の攻撃から公使館区域を守り抜いたのが駐在武官であった柴である。
 柴の働きは各国から称賛された。
特に英国のマクドナルド公使は、
「北京龍城の功績の半ばは特に勇敢な日本将兵に帰すべきものである」
と柴の功績をたたえ、ビクトリア女王に日本との同盟を強く進言した。
日英同盟締結の陰には柴の存在があったのである。
 柴は、「賊軍」会津の出身でありながら、陸軍大将にまでなった「不屈の軍人」である。
会津藩士の五男として生まれた柴の生涯は壮絶であった。
戊辰戦争によって、柴の祖母、母、兄嫁、姉と7歳の妹は自刃。
幼い柴は、敵の目を逃れて、自宅の焼け跡から遺骨を拾い集めた。
 捕虜とされた後、一家は陸奥国斗南(青森県むつ市)に移住するが、極寒の地での生活は困窮を極めた。
「炉辺にありても氷点下十度十五度なり。
炊きたる端も石のごとく凍り、これを解かして畷る。
衣服は凍死をま潜れる程度なれなければ米俵にもぐりて苦しめらる」
「餓死、凍死を免るるが精叫杯なり。
栄養不足のため痩せ衰え、脚気の傾向あり。
寒さひとしお骨を噛む」。
後に柴はこう回顧している。
 野良犬の死骸をも食べ、絶望的な境遇を必死に生き抜いた柴を支えたものは、「朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民言語に絶する狼藉を被りたること、脳裡に刻まれて消えず」という会津武士の衿持であった。
 「非業の最期を遂げられたる祖母、母、姉妹の面影まぶたに浮かびて余を招くが如く、懐かしむが如く、また老衰孤独の余を憐むがごとし」。
齢80を超してもなお、「懊悩流テイやむことなし」と書き残した言葉の意味は重い。[2012/10/27産経]

     

 

■ 日英同盟成立 1902年
 世界の常識をくつがえし、ロシアとの開戦を可能にした同盟。
 三国干渉の後、ロシア海軍が遼東半島沿岸や朝鮮西海の制海権を握ったことは、日本の防衛に大変な脅威となった。

「開戦やむなし」の声も高まったが、日本がロシアに勝てる可能性は万に一つもない。

日本政府も欧米諸国もそう思っていた。

ところが、日本にとって思わぬ味方が現われた。

大英帝国から同盟の提案があったのである。
 日英同盟成立のニュースを聞いて、当時の国際社会は文字どおり仰天した。

なぜなら、世界に冠たる大英帝国が、有色人種の小国と同盟を結ぶというのは、当時の常識では考えられないことであった。

伊藤博文ですら、イギリスの提案を信じず、ロシアと妥協するほうが可能性は高いと見ていたのである。
 イギリスはその頃、南アフリカのボーア戦争に手を焼いていた。

英陸軍が東アジアでロシアの南下を抑えることは全く不可能とわかったので、東アジアに信頼できる国を求めていたのだが、当時は日本にはまだよく知られていなかった。

イギリスはアジアの植民地を守る為のパートナーとして日本を選んだのだ。
 勿論、同盟とは言っても、はるばるヨーロッパからイギリス軍が授軍に来てくれる訳ではない。

武器供与をしてくれる訳でも、戦費を調達してくれる訳でもない。

しかし、かの大英帝国がロシアに対していっさいの便宜供与を拒絶し、圧力をかけ続けてくれれば、ロシア軍の動きは大いに妨げられる。

ロシアと同盟関係にある国も、イギリスとの関係上、ロシアを軍事的に助けることはないだろう。

そうなれば、小国日本がロシアに勝つチャンスが生まれる筈だ。

日英同盟が結ばれたことが、日本をロシアとの開戦に踏みきらせたのである。
 日本にとって日英同盟の持つ意味はまことに大きかった訳だが、およそ二十年間にわたって続いたこの同盟は、日露戦争以後も両国にとって重要な意味を持ち続けた。

イギリスの同盟国ということで、国際社会における日本の信用は大いに高まった。

また、日本にアジアを任せていられたおかげで、イギリスもヨーロッパ人陸での外交に力を集中することができた。

その日英同盟の解消を企んだのはアメリカであった。

シナ大陸進出を最大の目的にしていたアメリカは、なんとか日本の力を殺ぎたかった。

日本を第一の仮想敵国とみなし、精力的に運動した結果、大正十年(一九二一)のワシントン会議において日英同盟は解消されることになった。

そのかわり日・英・米・仏の四国協定が緋ばれたのだが、“共同責任は無責任”という言葉のとおり、この条約は何の意味もなかった。

イギリスとの同盟がなくなったと見るや、アメリカは日本を狙い撃ちしはじめ、これ以降、日米関係は悪化の一途をたどる。