[日本の歴史]を読んで

 

日本の歴史:読む年表より その2

 渡部昇一氏の名著[日本の歴史]から個人の好みで抜粋しました。

学校で習った日本史が如何につまらないものだったのか、思い知らされました。

GHQにより、奪われた日本の歴史について多くを語っています。

是非、山本七平[日本人とは]とあわせ原文をお読み下さいますよう。
 GHQが抹殺した日本史の真実については

GHQ検閲Ⅰ][GHQ検閲Ⅱ][GHQ検閲Ⅲ]を参照下さい。
 


■ 北清事変(義和団の乱) 1900年(明治33年)
 日本軍の勇敢さと品格が日英同盟の引きがねとなった。
 「三国干渉」以降の晴国は、西洋列何から領土を好きなように食い荒らされているような状態であり、シナ人たちが白人排斥の感情を抱くようになったのは無理のない話であった。

その旗頭となったのが「扶清滅洋」とか「代天行道」(天に代わって正義を実現する)をスローガンにする「義和団」という宗教集団であった。
 この義和団の起こした反乱は清全体に広がり、とうとう北京を制圧し、同地の公使館区域を包囲するという事態にまで発展した。

清国政府は傍観するのみで、義和団を排除しようとしないどころか、これをきっかけに諸外国と戦うという詔勅まで出したのである。

ここに至って、義和団の暴動は内乱から一転して対外戦争になった。

清国正規兵が北京の公使館や天津の租界を攻撃しはじめたのだ。
 列国は驚愕した。

このままでは、公使館員や居留民が皆殺しになるのは目に見えている。

しかし、ヨーロッパから援軍を派遣するのでは間に合わない。

そこで、欧米列強はみな日本が救援軍を送ることを望んだ。

日本政府は国際社会の反応を恐れて慎重な姿勢をとっていたが、欧州各国の意見を代表する形でイギリス政府から正式な申し入れがあったため、ようやく出兵を承諾した。

日本軍は欧米との連合軍の先頭に立って力戦奮闘した。

その結果、北京もついに落城した。
 この北清事変において、欧米列国は日本軍の規律正しさに感懐した。

とりわけ彼らを驚かせたのは、日本軍だけが占領地域において略奪行為を行わなかったという事実であった。

北京でも上海でも連合軍は大規模な略奪を行ったが、日本軍だけは任務終了後ただちに帰国した。
 救援軍の到着まで、北京の公使館区域が持ちこたえたのも日本人の括躍が大きかった。

十一カ国の公使館員を中心につくられた義勇軍の中で、日本人義勇兵は柴九郎中佐の指揮の下、最も勇敢にして見事な戦いぶりをみせた。

事件を取材して『北京籠城』を書いたピーター・フレミングは、

「柴中佐は、籠城中のどの士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。

日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一何の賞讃の的になった」

と書いている。

列国の外交官やマスコミは日本軍の模範的行動を見て印象を一変させ、「同盟相手として信ずるに足りる国である」という親日的感情を抱いた。
 大英帝国が日本と同盟を結ぶに至ったのは、これが一つの要因となった。

結局、国家間の外交も、人間が動かすものだ。

そこには打算もあるだろうが最終的な決め手となるのはやはり人間的な信頼関係ではないか。

そのことを、この時の日本軍の活躍は教えてくれている。