「その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、

これ淤能碁呂島(おのごろしま)なり。」
 

 攪き廻した矛の先からしたたり落ちる塩が積もって出来た島は、己れの心の島である、

の意。

攪き廻して引き上げた矛の先には四つの母音アオウエには

チイキミシリヒニの八つの父韻が附着して、チ+ア=タ、キ+オ=コ、……

と三十二個の子音が附いて来ます。

 

人の心の現象は三十の子音で表されますから、己(おの)れの心の島であります。

(しま)とは「締(し)めてまとめる」の意。

心である海の部分々々を締めてまとめたものは一音一音の現象子音ということが出来ます。

これが自分というものの内容であり、表現であるということであります。

 

 現代の社会では、存在する物や事を識別・区分する判断の土台として学問的な概念を使います。

同一の現象についても判断の概念に相違があると、観察の結果に異論が生まれます。

論争が起こります。

その点、古代日本語の如く、物事を区別し、表現するのに、そのものズバリの実相である言霊を用いますので、言葉即実相で異論の起こりようがありません。

古代日本語の他に類を見ない能力にご注目下さい。

この「惟神言挙(かむながらことあ)げせぬ」と言われる世界で唯一つの実相の言葉を地球上に初めて創り出した時の喜びを日本書紀

「二神天霧(さぎり)の中に立たして曰はく吾れ国を得んとのたまひて、乃ち

天瓊矛(あめのぬぼこ)を以て指し垂して探りしかば馭盧島(おのごろしま)を得たまひき。

(すなは)ち矛を抜きあげて喜びて曰はく、善きかな国のありけること」

と記しています。

人類が初めて言葉で自分の見・聞き・触れた事を実相そのままに表現することが出来た喜び

ということでありましょう。

 

 

 「その島に天降(あまも)りまして、

(あめ)の御柱(みはしら)を見立て八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。」
 

 伊耶那岐・伊耶那美の二神が先天構造である天の浮橋の両端に立って、

チイキミシリヒニの八父韻を以ってアオウエ四母音を攪き廻し、三十二の現象の最小の単位である子音を生みます。

 

心の現象世界をそれぞれ分担する自分の心の島を見ることが出来ましたので、その島に下り立って見ますと、その島々を生んだ母音の柱が島々の上にスックと立っているのが分かりました。

御柱は二つあり、

主体を表わす母音の柱を天之御柱といい、

客体を表わす半母音の柱を国之御柱といいます。

 

 この二本の御柱の立ち方に二様があります。

天之御柱と国之御柱が一体となり、現象界の中心に立つのを絶対といい、二本の御柱が別々に現象界の左右に立つのを相対と呼びます。

 

A図は神道で「一心の霊台、諸神変通の本基」と呼びます。

伊勢神宮の本殿の床下に建つ「御量柱(みはかりばしら)」です。

 

 

 八尋殿とは八つを尋ねる殿(図形)の意です。

八尋殿の図形は

四方にいくら延長させても同一原理を保ちますので彌広殿とも書きます(D図)。

哲学ではB図を(かまち)と呼び、

キリスト教ではC図を「アダムの肋骨(あばらぼね)と呼び、

またキリストが生み落とされた「馬槽(うまふね)といいます。