■ 紀元前158年 

 孝元帝滅後、子息の開化帝(九代天皇)が、大和のワケグラ王に即位するや倭朝は、開化帝の弟・大毘彦を奥州
(おうしゅう)ミヤサワに派遣し、日高見国(ひたかみのくに)タカグラの王に即位させようとしたが、荒吐族(あらばきぞく)の長老会議がこれを否決し、道嶋のワケグラ王に配する事に決めた。
 しかしこの処遇を不服とした倭に反感が起こり、また奥州の荒吐族も大分裂して争う事になった。

 

東日流外三郡誌


 

■ 紀元前150年頃

 ギリシャでこの頃に沈んだ水深40mの難破船から、青銅製の歯車4個が発見された。

これはアンティキティラの歯車と呼ばれ、大きな歯車は直径12.7cmで、一部に古代ギリシャ文字で暦に関する記述や星座名が刻まれている。

自動回転式の天球儀の歯車で、X線で内部構造を調査すると幾重にも重なった32枚の歯車が内部で発見された。

また1575年にドイツで作られた天文時計で初めて使用された差動歯車機構という技術も使われていた。

その技術とは回転の組み合わせによって回転数や回転速度を変えられる仕組みだが、回転比を解析した結果、天動説における「地球を中心とした太陽と月の公転比」である「19:235」と一致した。

またこの歯車は古代ギリシャのオリンピア競技の実施時期と場所を決める装置でもあった。

他にも海底からは古代の英雄、哲学者、雄牛、楽器などを模した銅像や大理石の彫刻、陶器類、ガラス工芸品、装飾品、硬貨などが発見された。


 

 またこの頃、中国では劉邦(りゅうほう)の前漢(ぜんかん)が中国を統一していた。

都は長安にあり、官制や法律の殆どを秦制に習い、郡国制をとっていた。

更に中国の歴史書物には、日本を表す倭や倭人が登場し始めていた。

この頃から倭人が定期的に漢の植民地の楽浪郡(らくろうぐん)を介して漢王朝へ貢ぎ物を捧げており、多数の政治集団を形成していた。