出口王仁三郎全集 

第二巻 宗教・教育編 【教育編】

第二篇 教育雑録 

第一章 弟橘媛命

 

 弟橘媛命おとたちばなひめのみことは、

穂積氏忍山宿禰ほづみしおしやまのすくねぢょにして、日本武尊やまとたけるのみことにましませり。

新撰姓氏録しんせんせいしろくに、

穂積朝臣ほずみあそん石上いしがみ同祖どうそ、神饒速日命六世孫伊香色雄命之後也』

とあり。

 

 景行けいかう天皇てんわうの四十年、

東夷あづまえびすそむきければ、天皇、日本武尊やまとたけるのみことに征討を命じ給ひき。

 

みことみことのりを受けて道に伊勢いせ神宮じんぐうまうで、

御姨倭姫命おんをばやまとひめのみことより天叢雲剣あまのむらくものつるぎ火鑚ひうちとを授かり給ひ、尾張をはりを経て駿国すんこく

 

ただし駿河国するがのくにのちに別れし名にて、この当時たうじ相武さうぶの内なり、

熱田あつた大神だいじん縁起えんぎ頭註とうちゅうに、或云、古昔相模駿河本為 一国。

後陞 も河郡為 国、故古時焼津阿部等皆属 相模神名式云、

駿河国するがのくに益津郡えきつごほり焼津神社やきつじんじゃへり』

り給ひし時、ぞくあざむかれて、野火のびの難に遇ひ給ひしかど、

神剣の徳によりて助かり、かへりて賊どもをちうし給ひき。

 

かくて相模国さがみのくにに到り、上総国かずさのくにに渡り給はむとす、

走水海はしりみづのうみを望みてり給はく「ちいさき海なり立ちはしりても渡りつべし」

と、海中に到りましけるに、暴風ばうふうにはかに起り御舟おんふねただよひてほとんかへらむとす。

 

の時、弟橘媛命おとたちばなひめのみことみことに従ひ給ひけるがみことまをし給はく

海神わたつかみの心なり、願はくはやっこの身をもっ皇子みこ御命みいのちあがなひまつらむ。

皇子みこまけのまにまにまつりごとを行ひて復命かへりごとまをたまへ(日本書記)』

とて波の上に菅畳八重すがたたみやへ皮畳八重かはたたみやへを敷きて、其上そのうへくだりて沈み給ひき、

の沈みまさむとする時、橘媛たちばなひめうたひ給はく

『さねさし

きでん相模さがみ枕詞まくらことばとはきこゆれど、いまつまびらかならすとへり)

相模さがみ小野をぬに燃ゆる火の、火中ほなかに立ちて、問ひし君はも』

 

一首の意は相模さがみ後世こうせい駿河するが)の焼津やきつ野火のびの時にさへ、

ひ従ひまつりて、相問あひとひ語らひし、

つまの君はもにて最後のはもに無限の情こもれり、熱田あつた大神だいじん縁起えんぎ頭註とうちうに、

『今按此歌恐非 此時所 作とへり、あるひしかかむ』

かかるほどに、かぜおさまり、なみやわらぎて御船みふねすすむことを得たり(古事記)やがて上総かづき木更津きさらづにつき給ふ。

 

此処に着きまして橘媛たちばなひめかなしみ、久しく其海そのうみを望みて去り給はざりしかば、

のちひと此処ここを君去らずしし所と言へるが、

地名となれりと言へり(玉ダスキ)

 

 其の後七日を経て橘媛命たちばなひめのみことし給ひし御櫛おんくし、海辺に流れ寄りしかば、拾ひ取りて其処そこ御墓おはかを作れりと云ふ(古事記

きでんにいはく、上総かづさの浜か相模さがみの浜か定めがたし、直淵翁なほぶちをう)の書入かきいれに、

今、相模国さがみのくに梅沢うめさわのあたりに、吾妻森あづまもりと云ふあるれなりとあり、

梅沢うめさわは、余綾郡よあやぐんなり、大道おほみちにて小田原おだはら大磯駅おほいそえきとの間なり、

吾妻山あづまざん吾妻あづま明神みゃうじんやしろあり、此社このしゃに伝記ありや尋ねまほしと、

熱田あつた大神おほかみ縁起註えんぎのちゅうにいはく、

上総国長柄橘神社摂社有 水向社 熱田亦 有 水向社 祠 弟橘媛 と』

 

かくてみこと上総国かづさのくにより転じて陸奥国むつのくにり、日高見国ひだかみのくに

原註げんちうところ異説ゐせつありとへり、延喜式えんぎしき陸奥国むつのくに桃生郡ももふぐん日高見ひたかみ神社じんじゃ

また、常陸ひたち風土記ふうどきに、

信太郡しんたごほり此地このちもと日高見国ひだかみのくになりとあり何処どこたしかに知りがたし』

にいたりことごと東夷あづまえびすを平げ給ひき。

 

かへりて常陸ひたち甲斐かひを越え、

また武蔵むさし上野かうづけを経て礁日阪いしひざか上野国かうづけのくに』に至り、

弟橘媛おとたちばなひめの事をしのび給ひ、東南の方を望み、あまたたびなげきて

 

吾妻わがつまはや』とのたまひき。

これより阪東諸国はんとうしょこく吾妻国あづまのくにといふなり、さて信濃しなのを経て尾張をはりで給ひ、

更に近江あうみ伊吹山いぶきやま悪神あくしんを平げむとてでまししかど、

かへりてその毒気どくきあたり、伊勢いせにうつり給ひき。

 

能褒野のぼのといふ所にて御病おんやまひはなはだしくなりければ、

武彦命たけひこのみことをして天皇に返言かへりごとまをさしめ御年おんとし三十にて遂にかうじ給ひぬ。

 

天皇てんわうきこしめしてかなしみ給ふことかぎりなかりきとぞ

神皇じんわう正統記せいとうきおよび熱田あつた大神だいじん縁起えんぎる)

おもふに日本武尊やまとたけるのみことは、天資天武てんしてんぶにましまして、

父天皇ちちてんわうも今朕察汝為人、身体長大、容姿端正、力能枉鼎、猛如雷電、

所 向無前、所攻必勝、即知之、形即我子実則神人とのたまひし程なりしかど、

当時到る処に荒ぶるあやしき神等かみらありて、

みことに危害を加へたりしかば九死一生を得給ひし事もまた屡々しばしばなりき。

 

こと走水渡はやすゐのとなんの如きは、いみじき危難なるべし。

 

もしとき橘媛命たちばなひめのみことおはさざりしならむには、

かの建稲種公の如く悪神あくしんの害に遇ひて、相模さがみの海の藻屑もくずとなり給ひ、

東征とうせいの業も半途にて終りけむも知るべからず。

 

されば上総かずさより東の征討の功は、

なかば橘媛命たちばなひめのみことこうなりといふもあながちの強言きゃうげんにはあらざるべし

日本武尊やまとたけるのみこと甲斐かひより尾張国をはりのくにかへりまさむとしける時、

建稲種公とはかりて、われは山道よりかむ、こうは海道より帰れ、

尾張をはり宮酢姫みやすひめの宅に会ふべしとて、建稲種公を海道に向はしめ給へり。

 

熱田あつた大神だいじん縁起えんぎにいはく、

日本武尊還向尾張到篠城進食之間、稲種公家従久米八腹、策駿馬馳来、啓日、稲種公大 海亡没、日本武尊乍聞悲泣日、現哉現哉、亦問公入海之由、

八腹啓日、渡駿河、海中有鳥、鳴声可怜、羽毛綺麗、問 之土俗称覚駕鳥、

公謂日、捕此鳥献我君、飛帆追鳥、風波暴起、舟船傾没、公亦入海矣、

日本武尊吐喰不甘、悲泣無已』

 

大かた女は常に男の裏にあるものなれば、表立ちたる功は無けれども、

疲れたる男の心を慰めて新しき勇気を起さしめ、

荒ぶるいきどほりなごめてあやまちからしめ、事にあたり時にのぞみては、

良人をっとの為に命を捨ててその功を成さしむ。

 

これ女の特性にて男の及ばぬ所なり。

 

古来すぐれたる人の裏には、

かならず賢良けんりゃうなる女性のひそめるにてもあきらかなるべし。

 

おほよそ物はみな特性あり、その特性とくせいに従ひてこそいみじき功も立つべけれ、

さるを今の世の傾向、女にて男のわざこころざす者多く、

内にありて男の功を助くるものすくなければ、

女には女らしき功無く、男には男らしきせきも無きなり、なげかはしからずや。

 

(大正七、八、一号 神霊界誌)