理想郷の建設を目指してモンゴルへ

 

 未開の大地を開拓して理想郷をつくる…そんな夢を抱く人は今は少ないかも知れない。
 しかし百年前の日本人は新天地を求めて次々と海外に渡って行った。

ヨーロッパにとってのフロンティアがアメリカだったように、日本にとってのフロンティアは中国大陸だった。

 当時の中国は清朝が滅亡(1912年)した後、政治状況は混沌としており、中華民国政府は誕生していたが、欧州の列強や日本からの圧力を受けて権力は衰退し、統治能力が低下して国内は混乱状態だった。
 またモンゴル(蒙古)も、それまで清朝の支配下にあったが、清の崩壊後やはり混乱が続いており、国があるのかないのか分からないような状態だった。

 そのモンゴルの大原野に宗教的な一大理想王国を建設しようという壮大な構想を立てて、

王仁三郎は日本を出発した。
 大正13年(1924年)2月のことだ。

4ヶ月後の7月に帰国するのだが、このモンゴル神業を「入蒙」(にゅうもう)と呼ぶ。

 

入蒙前後の満蒙の状況

1840~2年 阿片戦争。清が英国に敗北
1894~5年 日清戦争
1904~5年 日露戦争
1911年 辛亥革命
1912年 中華民国成立/清朝滅亡
1917年 ロシア革命
1922年 ソ連邦成立
1924年2月~7月 王仁三郎入蒙
1924年11月26日 モンゴル人民共和国成立
1932年3月 満洲帝国成立

 

王仁三郎の入蒙の直後に、ソ連に続く世界で二番目の社会主義国家・モンゴル人民共和国が誕生している。

 入蒙にさかのぼること3年前の大正10年2月12日、王仁三郎と大本幹部2名は京都府警に検挙された。

これが政府による一回目の弾圧「第一次大本事件」だ。

容疑は不敬罪と新聞紙法違反である。
 不敬罪は当局の気分次第でどうにでも有罪にできる思想犯罪だ。

結局、王仁三郎は不敬罪で懲役5年の判決が出て控訴したが、

昭和2年に大正天皇崩御に伴う大赦で免訴となった。
 新聞のバッシングによって

大本はすっかり「邪教」「国賊」レッテルが貼られてしまったが、

そんな逆境の中、王仁三郎はわずか三人の弟子だけを連れて、

日本を出て大陸へと向かったのだ。
 しかも、まだ裁判中の身だったのだからまったく奇抜な行動だ。

 

第一次大本事件を報道する新聞記事

 

大正10年(1921年)2月12日の大本事件は当初、報道管制が敷かれたが、

3ヶ月間の5月に報道管制が解除されるとマスコミ各社は一斉に、

大本を淫祠邪教と決めつけて報道した。

マスコミのスキャンダリズムの態度は昔も今も変わらない。

 刑事裁判の被告人は勝手に海外旅行には行けない。

逃亡のおそれがあるからだ。
 しかし王仁三郎はその禁を犯して大陸へ発った。

天に神の徴(しるし)が顕れたのだ。
 大正十年の大本事件の日。

その日は旧正月5日だった。

王仁三郎が検挙されたとき、

白昼の空には上弦の月(新月から満月に至る半月)と、太白星(金星)が輝いていた。
 それからちょうど三年後の大正13年2月12日に、

王仁三郎は昼間の空に同じように上弦の月太白星が光るのを目撃したのだ。
 

 三年前のあの事件を回顧した。

そして──満三年後の同じ日に、

同じような天文現象が現われたのは決してただ事ではあるまい。

いよいよ自分が神命を奉じて万民救済のため、人類愛実行のため、

天よりその実行を促すものである──と受け止めた。

そして、数年来、心に秘めていたモンゴル行きを決意したのである。
 直感によって王仁三郎はグングン行動して行くのだ。

 

王仁三郎が目撃した天体現象のシミュレーション

 

 王仁三郎が目撃した天文現象をシミュレーションしてみた(クリックすると拡大)。

金星は基本的に日中は見えないので、王仁三郎が見たのは朝か夕方だと思われる。 

 

【左】大正10年2月12日、朝9時30分の大阪上空。

この時刻に王仁三郎は大阪・梅田の大正日日新聞社の社長室にて検挙された。

空は見やすいようにわざと暗くしてある。

東の空に三日月と金星が並んでいるのが見える。 

 

【右】入蒙のきっかけとなった大正13年2月12日、午後5時の京都上空。

南の空高く三日月が、少し西の方に金星が見える。 

(天文ソフト「Stella Theater Pro」を使用してシミュレーションした)

 

 王仁三郎一行は船で朝鮮に渡り、

汽車で奉天(現在の瀋陽(しんよう)。中国語:沈阳)まで行くと、

そこから自動車で洮南(とうなん)に向かった。

そして現地の馬賊(ばぞく)を集めて蒙古に向かい行軍を開始したのである。

 中国の、特に満州地方には「馬賊」と呼ばれる武装騎馬集団が多数活動していた。

国家権力の衰退により治安が悪化し、住民が自警団を組織したのである。

馬賊の中には軍閥へと発展するものもあった。

たとえて言うなら戦国時代の野武士集団のようなものだ。

そこへ天下統一の野望を持った男が現われた。

王仁三郎である。

 王仁三郎の目的は単にモンゴルだけでない。

世界統一が彼の使命である。

それは政治的・制度的な統一ではなく、精神的・道義的な統一である。

それに着手するためにまずモンゴルに行って精神的一大王国を建設しようとした。

その後はエルサレムまで行こうとしていたのだから、スケールが壮大だ。

 王仁三郎は、

馬賊の巨頭・盧占魁(ろ・せんかい)将軍の軍団を率いてモンゴルの原野を行軍した。

王仁三郎は武器は持たない。

あくまでも宗教指導者である。

現地のモンゴル人は、日本から

モンゴルを救う大活仏が来た、ジンギスカンの再来が来たと言って歓喜して迎えた。

兵士たちも次々と合流し、千人くらいの規模の行軍となった。

 このモンゴルにおける神業の活劇は、

霊界物語の特別篇「入蒙記」に王仁三郎本人が詳しく書いている。

 やがて、満州軍閥の総帥である張作霖(ちょう・さくりん)の誤解を招いて、

王仁三郎一行は捕まってしまう。

盧占魁は張作霖の配下にいたのだが、

盧占魁が日本人と組んで反乱を起こすかのような誤解を与えてしまったのである。
 白音太拉(パインタラ。中国名は通遼。中国語:通辽)という町で捕まり、

盧占魁らは銃殺されてしまった。

 

王仁三郎入蒙

【左】馬上の王仁三郎 

【中】一行は馬で移動した 

【右】王仁三郎が蒙古で使った名刺。

「弥勒下生達頼喇嘛 素尊汗」「日本名 源日出雄」と名乗った。

(達頼喇嘛は「ダライラマ」と読み観音菩薩の化身のこと。

素尊スサノオのこと)

 

盧占魁と張作霖

【左】王仁三郎と盧占魁を囲んで記念撮影。

写真中央が王仁三郎、その左が盧占魁(

大正13年5月12日、下木局子の盧軍司令部前にて) 

【中】蒙古の英雄と言われた盧占魁将軍。

王仁三郎を慕い、蒙古を救う救世主と崇めたという(大正13年2月13日) 

【右】満州軍閥の総帥・張作霖。

昭和3年(1928年)6月、奉天に向かう列車に乗っている際に爆殺された。

関東軍による謀殺と言われている。

 

植芝盛平

【左】合気道開祖・植芝盛平。

王仁三郎の直弟子で、入蒙の時に選ばれて随行した三人の弟子のうちの一人だった。 

【右】左から二番目が王仁三郎。一番右端が植芝盛平。(大正13年3月22日、洮南にて)

 王仁三郎ら日本人6人も町中を引き回された挙げ句に、処刑されることになった。

このとき王仁三郎は次のような辞世の歌を詠んだ。
 

よしや身は蒙古のあら野に朽つるとも日本男子(やまとをのこ)の品(しな)は落(おと)さじ

いざさらば天津御国(あまつみくに)にかけ上り日の本(ひのもと)のみか世界を守らむ

日の本を遠く離れて我は今蒙古の空に神となりなむ


 しかし何故か機関銃の調子が悪く、その日の処刑は中止となった。
 そうこうしているうちに、

王仁三郎ら日本人の遭難を知った日本領事館によって救出され、

日本に強制送還されることになったのだ。

 

国賊から英雄へ

 結局、王仁三郎がモンゴルで活動していた期間は、4ヶ月ほどである。

「入蒙」と呼ばれているが、

実際に行軍したのは内蒙古(現在の中国・内モンゴル自治区)だけで、

外蒙古(現在のモンゴル国)には行けずに終わった。

地図を見ていただければわかるように、実質的には満洲を行軍した「入満」だった。

 帰国した王仁三郎の行く先々でマスコミの取材班が殺到し、

押しかけた人々からは、まるで凱旋将軍を出迎えるかのように大歓声が湧き上がった。

三年前は邪教の教祖として罵られていたのだが、

この入蒙の壮挙によってイメージは一転し、英雄となったのである。
 以後、王仁三郎を見る世間の評価が変わり、彼への期待が高まって行くのだ。

 

パインタラで逮捕された王仁三郎

パインタラで逮捕された王仁三郎たち。足枷を付けられている

(大正13年6月、パインタラ公署監獄前にて)

 

蒙古から帰国した王仁三郎

【左】大阪駅前で、帰国した王仁三郎を歓迎して出迎える人々。 

【中】大阪駅から刑務所へ向かう王仁三郎。 

【左】刑務所へ向かう王仁三郎。

まだ一次事件の裁判中で、責付出獄(身内の責任で身元を引き取り仮に出獄する制度)だったのだが、無断出国したため責付出獄が取り消され、再び監獄に収監された。

入蒙略年表

2月12日 月と太白星が白昼輝くのを目撃〔6章〕
2月13日 午前3時半、綾部を汽車で出発〔7章〕
夜、下関港を出航
2月14日 朝、釜山港に上陸、鉄道で北上
2月15日 夜、奉天に到着、盧占魁(ろ・せんかい)と面会
3月3日 奉天を出発〔10章〕
3月8日 洮南(とうなん)に到着〔13章〕
3月25日 洮南を出発〔15章〕
3月26日 公爺府(こんえふ)に到着
4月26日 奥地へ向けて公爺府を出発〔20章〕
4月28日 下木局子に到着
5月14日 上木局子に移動〔24章〕
6月3日 興安嶺の聖地を目指して出発〔28章〕
6月5日 進路が何故か南方に変わる〔29章〕
天保山の跡を目撃
6月11日 熱河区内のラマ廟に到着〔31章〕
6月21日 白音太拉(パインタラ)に到着〔34章〕
支那軍に武装解除させられる
6月22日 午前1時、捕縛される。
盧占魁ら銃殺される、王仁三郎らも銃殺されそうになるが、助かる
6月22日 夕方、鄭家屯(ていかとん)の日本領事館の土屋書記生が面会〔35章〕
7月5日 鄭家屯の日本領事館に引き渡される
7月21日 大連に到着
7月25日 門司に到着
7月27日 大阪刑務所北区支所に収監〔36章〕
11月1日
保釈され98日ぶりに外に出る
 

王仁三郎の入蒙ルート概略図

王仁三郎の入蒙ルート概略図

 

 外蒙古(現在のモンゴル国)まで行けずに

内蒙古(中国の内モンゴル自治区)を行軍して終わった。

このプロジェクトに関して言えば

当初の目標(蒙古に宗教的国家を建てる)を達成できなかったので

「失敗」だったと言えるが、これは神の壮大な経綸の一部に過ぎない。

その真の目的は人間が知ることはなかなかできない。