月鏡 257 

 

仏教の女性観

 

 仏教ぶつけう玉耶経ぎよくやきやうには、

女人によにん不利ふりなる地位ちゐが詳細にならててあつて、

これををんな十悪じふあくつてゐる。

 

女子ぢよし出世しゆつせしてもその両親りやうしんよろこばれない。

 

ンだのかすだとか、あまツチヨだとか、

種々しゆじゆ侮蔑的ぶべつてき言葉ことばもつぐうせられ、

女子ぢよし三人さんにんてばいへむねおとすとか、

女子ぢよし小人せうじんやしながたしだとかつて馬鹿ばかにされる。

 

そのには養育やういくしてもすこやうになれば身代しんだいせるほど荷物にもつこしらへて他家たけつてしまひ、厄介物やくかいものあつかひされる。

 

そしてをんな三界無宅さんがいむたくなぞと軽侮けいぶされる。

 

そのさんにはちひさくてひとおそれる。

 

人中ひとなかてどんなに立派りつぱこといてもただちにをんなげんとして相手あいてにされない。

 

そのには父母ふぼ教育けういく嫁入よめいりつい始終しじう心配しんぱいえず、

沢山たくさん荷物にもつまでたせてやりながら、

不調法者ふてうほふもの宜敷よろしくつて嫁入先よめいりさき人々ひとびとあたまげる。

 

そのむらいぬにさへ遠慮ゑんりよするやうな気持きもちになつてらねば、

むすめにくまれるといふ心配しんぱいから、父母ふぼ女子ぢよしよりも男子だんし出生しゆつせいよろこぶ。

 

そのこひしき父母ふぼわかれ、なつかしい郷里きやうりつて門火かどびされ、

一旦いつたんしたうへんでも両親りやうしんいへかへことはならぬと言渡いひわたされ、

一人ひとり親友しんいうところひやられる。

 

そのろくしたいへしうとしうとめや、小姑こじうとはじめ、近所きんじよや、

したいへ親族しんぞくにまで機嫌きげんつて心配しんぱいし、

ひと顔色かほいろばかりなくては一日いちにちつとまらぬ。

 

そのしち妊娠にんしん出産しゆつさん心配しんぱいがあり、

一度いちどめば、容色ようしよくとみにおとろへ、

をつとあい如何どうかすると変異へんいしやうぜしむるうれひがある。

 

そのはちすこむすめらしくなると厳重げんぢゆうなる父母ふぼ監視かんしけ、

外出ぐわいしゆつさへ自由じいう出来できぬ。

 

そのしてをつとせいせられ、無理解むりかいをつとになるとしもべごとくにぐうする。

 

それでも小言こごとひとこと出来できぬ。

 

そのじふいてはまご呵責かしやくせられ、

生涯しやうがい自由じいうないものといてある。

 

しか今日こんにち覚醒めざめをんなは、

かか十悪じふあく仏説ぶつせつみみかたむけるやう正直しやうぢきをんないから

男子だんしたるものほねれることである。

 

 

 十悪じふあく不利益ふりえき女性ぢよせいをば

  すくふは伊都能売いづのめかみ御教みをしへ

 

 女性ぢよせいてふものにうまれし不利益ふりえき

  すくふは伊都能売いづのめかみ御心