祖父・昭和天皇浩宮徳仁(ひろのみや なるひと)と命名した。

浩宮」の称号は四書五経のうちの『中庸』第32章にある「浩々たる天」、

徳仁」の名は同じく「聡明聖知にして天徳に達する者」を典拠とする。

 

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皇太子徳仁親王 - Wikipedia

徳仁親王の、お名前を付けたのは、昭和天皇陛下。

疑問に思うのよね。

なんで、将来の天皇になる親王「徳」という漢字を与えたんだろう。

皇室において「徳」という名前は「怨」を封じる「呪」に値するのに。

 

猪瀬氏の逆転の日本史に詳しいのだけど、

「徳」と言う字がついた天皇上皇というのは、祟り神になりかねないくらい、

無念のうちに亡くなった方たちばかり。

そして、子孫も絶えるの。

 

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聖徳太子
推古天皇の皇太子及び摂政

622年に斑鳩宮で倒れて2月22日に薨去

諡号聖徳太子

生前時は厩戸皇子と呼ばれていた。

太子の死後、

その皇子である山背大兄王は一族もろとも蘇我入鹿によって滅ぼされた。


孝徳天皇

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大化の改新後に即位した天皇

皇太子を中大兄皇子に定めてた。

遷都をめぐって、皇太子と対立が深く、皇太子をはじめ、

皇族たちは、勝手に倭京へ遷都してしまう。

皇后も兄の中大兄皇子についていってしまい、置いてけぼりにされてしまう。

失意の中、白雉5年10月10日(654年11月24日)に崩御

孝徳天皇の皇子である有馬皇子は、658年、

中大兄皇子によって謀反の疑いで絞首刑に処された。


称徳天皇

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聖武天皇内親王
即位後、退位して孝謙上皇を称するが、淳仁天皇を廃して重祚

769年、寵愛する僧侶の道鏡皇位を譲ろうとしたが、

和気清麻呂に阻まれて失敗した(宇佐八幡宮神託事件
770年8月4日に病気で崩御

病気回復を願う祈祷が行われた記録がないことから、

医療行為を施されず見殺しにされた可能性が高い。

独身であったので、お子様はない。

文徳天皇

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842年、承和の変で皇太子恒貞親王が廃されると、

変の解決に功のあった伯父藤原良房にも推され代わりに立太子

850年、仁明天皇の譲位により即位。

寵姫の生んだ第一皇子・惟喬親王を皇太子にしたかったが、

即位するにあたって功績のあった藤原良房の娘の生んだ惟仁親王を皇太子にする。

藤原良房との葛藤が続き、嵯峨上皇離宮だった冷然院などに居住し、

以後、引きこもる。

寵愛する惟喬親王を皇太子にする条件で、

皇太子に譲位する運動をするも、858年、突然に崩御

暗殺説の噂が高い。

崇徳天皇

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鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛して、

崇徳に譲位を迫り、体仁親王を即位させた(近衛天皇)。

その後、1156年の保元の乱に破れ、讃岐に配流。

同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房のみ。

舌を噛み切って写本に

「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」

「この経を魔道に回向(えこう)す」

と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉ような姿になり、

後に生きながら天狗になったとされている。

配流8年後の1164年8月26日、46歳で崩御


安徳天皇

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父は高倉天皇で、母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)。

祖父は、平清盛

生後まもなく立太子。2歳で即位。

政治の実権は清盛が握った。

1185年の壇ノ浦の戦い平氏の滅亡と共に入水。

短い生涯を閉じた。

順徳天皇

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1200年4月に立太子

1210年11月土御門天皇の譲位を受けて即位。

後鳥羽上皇の討幕計画に参画。

1221年5月に承久の乱を引き起こしたものの倒幕は失敗。

乱後の7月21日、佐渡へ配流。

在島21年の後、仁治3年(1242年)9月12日に佐渡崩御

 

死後、祟りが強いものだから、恐れて諡号擦る問う感じが普通だったみたい。

「徳」という諡号は、無念になくなった天皇上皇、たちが祟り神になり、

その怨念を封じるための、懐柔するための、

呪の字としてつかわれてたのね。たしか。

天皇である、昭和天皇が知らないはずないわけで、

あえて、選んだのはナゼ??

 

宮中は、入江をほか、スパイや売国奴カトリック共産主義、GHQ、、、

どいつもこいつも、

天皇家を憎悪し破壊し断絶させようとしているヤツばかりは跋扈する状態だったのよ。

今もそうだけど。

そして、正田美智子という、カトリック教徒の嫁が、

GHQの肝いりで乗り込んでくる。

昭和天皇は最高の霊能者だもの、人物の性根の良し悪し、霊位の高低は見抜けるはず。

祭祀も簡略化され、宮家も減らされ、、、

皇太子はGHQ、欧米の物質快楽主義にとりこまれている。

 

その中では、神以外に、頼るものはないのよね。

元々祭祀王だし、どうみても高度な霊能者だった昭和天皇

祖の天皇が、皇太子と嫁が生んだ最初の男児、将来の皇太子、天皇になる子。

その子に、与えた字が「徳」

徳仁親王

 それは、将来、皇室から失脚し追われるってことよ。

子孫は断絶するということよ。

死後、祟神になる将来ってことよ。

昭和陛下には、それが解ってたのか、そうなるように願ったのか、よね。

 

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后妃にかんしても「徳」という字は鬼門みたい。

 

建礼門院徳子

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この方も、、という字がついてるのね。

平家は桓武帝の末とはいえ、

元々、地方豪族、下級の役人に過ぎなかった立場。

運よく后妃を輩出したとはいえ、

「京都貴族の沈黙の常識」を、知らなかったと思う。

風水を駆使した魔法の都の京都を捨てて、

貿易しやすい土地に遷都しようとしたくらいだもの。

京都の貴族が、口にしないけど、みな知っていること、

を、知らなかったと思うわ。で、壇ノ浦につながるのね。

 

苗字にがつく家といえば、川家なんだけど、、。

「徳」という字は、天皇家には、最後まで、鬼門だったという感じね。

川家の子孫であっても、苗字がちがうと、問題ない感じなんだけど。

ちなみに、京都では、とくがわ、ではなく、とくせん、と呼ぶそうですね。

お公家さんは、濁音が嫌いだから。

 

家康は、最初、松平姓だったのを、川に改めるのだけど、

朝廷から賜姓という形をとりたかったらしく、天下人だった信長に頼んで、

朝廷に申請してから、朝廷から、川姓を賜る形で改名したらしいのね。

川」

この名前が申請されたとき、当時の朝廷は戦慄したかしら。

 

徳川和子

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徳川2代将軍の末娘。

後水尾天皇の女御として、入内し中宮になる方。

男児がうまれるけど、夭折。おそらく粛清されたはず。

長女が女帝として即位。

でも独身なので、お子は残さず。

別の女性が生んだ男児を養子にして、即位を見届けることに。

 

和宮

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徳川14代将軍に降嫁。

京都から、はるばる江戸城へ御輿入れになった皇女さま。

早くに夫がなくなり、落飾するのね。

お子様はなく、維新後、ひっそりと、なくなるのね。

 

徳川喜久子さま

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徳川公爵家の令嬢。高松宮親王妃に冊立。

お子がないまま、高松宮薨去

喜久子さまの薨去後、高松宮家は断絶。

夫婦間には、何ら問題はないのだけど、

子孫ができないというのが気になりますね。

 

昭和陛下、いろんなかたの証言から、文仁親王を、

ものすごく可愛がってたのは事実みたいね。 

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華子さまの笑顔が、可愛いですね。曇りがないです。素敵ですね。

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http://www.logsoku.com/r/2ch.net/newsplus/1252934045/

文仁親王

1965年(昭和40年)11月30日 、

皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第二男子として宮内庁病院で誕生。

幼少時の御称号は礼宮(あやのみや)。

論語」より

「博く文を学び、これを約するに礼をもってすれば、

またもって畔(そむ)かざるべし」

が由来。

秋篠宮文仁親王 - Wikipedia

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http://masakosamalove.blog.fc2.com/

私は、秋篠宮様の生母は、美智子さまではなく別人と思ってるの。

それに加え、最近、あまりに徳仁親王愛子内親王に違和感があるため、

徳仁親王が、托卵ではないかと思い始めたわ。

そう思って、画像、動画、過去の履歴なんかみていると、すんなり腑に落ちるの。

ナルちゃんという天皇家に違う家系の人間が紛れているって思ったら、

不祥事も不出来も妙に納得できたわ。

 

これは想像で妄想なんだけど、

昭和陛下も、徳仁さんの種を疑ってたんじゃないのかな。

ご成婚前は、

「皇太子が気に入ったなら平民でも良い」

とおっしゃってたけど、ご成婚後、あまりに美智子さんの、

異常な虚栄や、反抗、欺瞞、なんかのご性格が表れてきて、

いろいろ思うことがでてきたのではないのかしら。

正田家や美智子妃の因業をかんがえると、

徳仁親王に将来はないとみてたのかも。

昭和陛下は、最高レベルの霊能者だったもの。

当然、賢所や、夢で神仏や皇祖神さまたちから、

啓示を受けたり、お声とかも聞こえてたと思うのよ。

科学者だったし、天皇の言葉一つで、現実世界を乱したくないので、

一切、言葉にはしなかったと思うの。

天皇様って、先祖はみんな天皇なのよ。

法親王や門跡も沢山いて、お守りしているのよ。

半端じゃないわ。

天皇とはいえ、入江侍従長をはじめ、敵に囲まれながらのご生活。

マスコミも、政府も、GHQと、その名残のものたちに握られていて、

思うことも言えないし、できないお立場。

裏切り者がいても馘首もできない、祭祀を簡略化されても、

どうにもできない、お立場。

その天皇陛下が放った、一発が、親王の命名に、

徳仁

だとおもうのよ。

 

昭和陛下の「徳」の呪いは、めっちゃ効いているわよ!