『武田惣角と大東流合気柔術』(2002)所収の佐藤啓輔「我が武道遍歴 師・武田惣角の思い出」に以下の一文がある。

 

上京後、拓殖大学に入り学生生活を始めた。そのうちに神田の本屋で「唐手」の本を見つけて、読んでみたらおもしろそうだったので、著者の富名腰先生(船越義珍のこと)を訪ねてみることにした。先生からいろいろ話をうかがった結果、習うことに決め、弟子入りすることにした(85頁)。

 

 

佐藤啓輔。『武田惣角と大東流合気柔術』より。

 

前回の記事で紹介したように武田惣角の弟子、佐藤啓輔(1907-2001)は船越先生の弟子でもあった。「唐手」の本とは、『琉球拳法 唐手』(1922)のことであろう。佐藤氏が弟子入りした時期ははっきりしないが、おそらく大正12(1923)年頃のことであろう。当時、船越先生は沖縄県人学生寮「明正塾」に住み込みながら、唐手を教えていた。

 

 

その頃、唐手部のある学校は一高と慶応の二校だけで、明正塾に習いに来る人達も毎日十人くらいだった。大阪でも教えている人がいると聞いていたがあまり盛んではなく、やっと普及し始めた頃だった(86頁)。

 

「大阪でも教えている人」とは本部朝基のことであろう。とすると、『キング』(大正14年9月号)の発売前でも、本部朝基のことは東京でも知られていたわけである。

 

いつか宮内省の武道場の斎寧館〈ママ〉に富名腰先生に連れられて行き、竹田の宮様の前で演武したことがある。私は簡単な唐手の型で「ジオン」をやった。先生は「クーンヤンクー」〈ママ〉という型をやられた。当時は型を習うだけで、組手は危険を伴うというのでやらなかった(86頁)。  

 

済寧館の演武というのは、大正13(1924)年5月5日に開催された演武会のことであろう。当時、船越先生は組手は(ほとんど)教えていなかったというのは以前述べたとおりである。

 

実は、この済寧館の演武会のために大塚博紀(和道流)が本土で初めて約束組手を作ったとされる。

 

ところが三月に入ると、嘉納治五郎師範の肝入りで五月五日に開かれる皇居済寧館道場の演武会に唐手術も出場することが決定されたのである。この知らせに驚ろいた富名腰は早速嘉納師範の許へ辞退の挨拶に馳けようとしたが、大塚はこれを強く制止すると共に、むしろ積極的に出場して唐手術の真の姿を本土武術家の前で公開することこそ嘉納師範の厚意に報いる道であることを力説したのである。

しかし、単に十五の形を並べただけではどう考えても武術としての体裁そのものが整わぬ。武術である限り、断じて乱取形を公開しなければならぬ。でなければ観演者の理解を得ることはできないのだ。そこで大塚は止むなく沖縄行を中止し、日本伝柔術と琉球唐手術の特徴を抽出した乱取形の作成にとりかかったのである(注)。

 

このとき作られた乱取形、すなわち約束組手が現代空手の組手の基礎となっている。今日広く普及している空手の組手は沖縄古来の組手に由来するものではない。本土の若者が空手型から技を抽出し、柔術の相対形の様式に即して作った近代の産物である。

 

佐藤啓輔は大正時代に明正塾で船越先生に師事した初期弟子の一人であるが、筆者はこれまで空手関連の文献で彼の名前を見たことがない。済寧館で演武するくらいなら、当時の弟子としてそれなりに知られていなければならないが、のちに武田惣角のもとで大東流を学ぶようになったので、空手史からは忘れ去られてしまったのであろうか。なお、佐藤氏は武田氏から教授代理に任命されており、高弟の一人に数えることができる。しかし、戦後は武道そのものから遠ざかってしまったようである。

 

 

追記:イギリスのベン・ポロック先生より、船越先生は昭和3(1928)年にも済寧館で演武しており、佐藤啓輔が出演した演武はそのときだった可能性があると教えていただいた。第一高等学校唐手研究会の設立が昭和2(1927)年6月なので、その可能性はある。ただし、当時、唐手研究会(唐手部)は東京帝国大学(大正15)や東洋大学(昭和2)でも設立されていたので、唐手部は一高と慶応のみという佐藤氏の記述に矛盾する。あるいはその記憶自体が不確かだったのかもしれない(2023年3月27日)。

 

 

注 今村嘉雄他編『日本武道大系 第8巻』同朋舎出版、1982年、172頁。