筆者が子供だった1970年代から80年代にかけて、日本は「空手ブーム」だった。漫画『空手バカ一代』(1971-1977)、そのアニメ(1973-1974)、それから空手ではなかったがブルース・リーやジャッキー・チェンのカンフー映画も空手ブームに一役かった。さらにアメリカ映画『ベスト・キッド』(1984)は日本でも大きな反響があった。筆者も映画館に見に行ったのを覚えている。

 

しかし、これら大衆メディアの影響は通常空手史の年表に載ることはない。第何回の空手の全日本選手権大会が開催されたとか、世界大会が開催されたとか、そうしたことが記載されている。もちろんこれらの大会も重要であるが、大衆への影響という点では、上記の漫画、アニメ、映画の影響とは比較にならない。

 

同じように1920年代から30年代にかけても「第一次空手ブーム」とでも言うべき社会現象があった。その火付け役となったのが雑誌『キング』で報じられた本部朝基の対拳闘家勝利の物語である(注1)。

 

不思議な田舎爺

大正11年秋11月、京都市に催された拳闘対柔道の大接戦は、日に日にさまざまの噂を生みつつ、いやが上にも満都の人気を煽り立てた。

 

『キング』大正14年9月号

 

上記によると、この試合が開催されたのは大正11(1922)年、つまり今年はその100周年にあたるわけである。『キング』は日本出版史上はじめて発行部数100万部を突破した雑誌である。当時、日本はまだ貧しく雑誌も友人同士で回し読みするのも珍しくはなかったから、実際の読者はもっと多かったであろう。その影響力は凄まじく、この記事のおかげで「唐手」の存在を大多数の日本国民ははじめて知ったのである。

 

このキング記事について、のちに様々な人が回想している。たとえば、早稲田大の野口哲亮は『空手研究』(1934)で以下のように述べている(注2)。

 

北九州の田舎の中学生の三年坊主の頃だった、キングに唐手の事が出て居た。それまで唐手とはどんなものだか知らなかったが只恐ろしく拳が強いと言ふ事を記憶してゐたに過ぎない。

 

また東大の小島寿男も『月刊空手道』(1957)のインタビューで以下のように語っている(注3)。

 

キングと云う雑誌があってね、それに唐手の記事が載ったことがある、中学時代それを見て興味をひかれてね

 

彼らは各大学の空手部の創立メンバーとなった人たちである。つまり、キングの記事のおかげで、各大学では空手部の創立が相次いで本土での空手の普及、ひいては世界的な普及につながったと言っても過言ではない。

 

もしキングの記事がなければ、空手の普及は10年遅れたか、あるいは普及せずにただ沖縄の一地方武術として細々と継承されるにとどまったかもしれない。実際、空手は本土に伝えられた当初人気があったわけではなかった。型中心の稽古が柔道家や剣道家たちから「踊り」と揶揄された。

 

さて、今年は空手の本土普及100周年ということで様々な報道があった。しかし、それらで報じられたのは船越義珍先生の体育展覧会での空手紹介や講道館での演武等で、本部朝基の対拳闘家勝利のことは報じられなかった。

 

本部朝基に対する無視や過小評価は過去数十年続いていることなので、いまさら驚くことではない。しかし、上のキングのイラストが船越先生になっているように、この記事の恩恵をもっとも受けたのは本部朝基よりもむしろ船越先生だったのではなかろうか。

 

大塚博紀先生は、関東大震災(1923)の後は船越先生の弟子は自分ひとりになっていたと回想している。船越先生の功績を疑うわけではないが、当初その活動は決して順風満帆なものではなかった。船越先生の本土での空手普及活動が軌道に乗ったのには、本部朝基の対拳闘家勝利が貢献したのもまた事実なのである。

 

願わくば、次の空手普及150周年か200周年のときには、本部朝基への言及もあってほしいものである。

 

 

注1 鳴弦楼主人「肉弾相搏(う)つ唐手拳闘大試合」『キング』大正14年9月号、大日本雄辯會講談社、1925年、196頁。

注2 野口哲亮「唖者の語る」『空手研究 第1輯』興武館、1934年、40頁。

注3 「続続 空手回想」『月刊空手道』第2巻第7号、空手時報社、1957年、49頁。