2001年の秋、私はあるエッセイに泣かされた。

私を泣かせたエッセイは誰が書いたものだったのだろう。

そんな気持ちがむくむく膨れ上がって、探偵気分で犯人を捜そうと思った。

手掛かりは、頭の中のかすかな記憶。

 

ところが、意外に早く犯人は特定できた。

「感情を伴う記憶は残りやすい」という定理は本当だった。

コナン君や古畑任三郎の推理力を借りるまでもなかったのだ。

 

題名は「死は決して順番ではない」で、書いていたのは秋元康さんだった。

 

前半では祖母や祖父のお葬式の時に、人は老いて死んでいくものだと泣かなかったが、63歳でお父さんが死んだ時には涙が枯れるまで泣いたといい、

「愛しい人間を失うことは、それまでに、どんなに話していようが、『もっと、話したかった』と思うことなのである」と書いている。

 

後半では、お父さんの死以来、愛しい人達よりも一秒でも先に死にたいと思うようになり、それがまた、変わったと書いている。

 

「死が順番ではない以上、その『番狂わせ』によって、誰かが受ける悲しみを僕が引き受けよう。僕は、愛しい人間たちよりも一秒でも長く、生きようと思った。

『死』とは、愛しい者たちの眠り方である。

先に眠ってしまっては、残された者たちが眠りにつくまでの時間を持て余すだろう。

愛しい人たちが全員、眠りにつき、その寝顔を見ながら、毛布を掛け、部屋の灯りを消して、最後に眠る責任があるような気がした。」と書いている。

 

そして、最後には自分には子供がいないから、こんなことを考えるのかといい、でも子供がいたとしたら、死の大前提が順番であることを言い訳に、先に逝くことを許してくれるだろうと結んでいる。

 

なんという優しさだろう!残される方がずっと辛いのだ。

 

「関白宣言」の関白殿、「俺より先に死んではいけない」などと言っているうちは、おぬしの愛はまだまだですぞ。