「自由ってどこまで」
満を持して「自由」をテーマに挙げてみました。
本日の参加者は大人6名、子ども3名+ファシリテーターで10名。
男性3,女性6、年齢層もまんべんなく年代ごとにいるというバランスのよい面子での有意義な対話時間でした。
それでは、
流れを振り返りつつ、いってみましょう!
まず、「自由」って?
ということで、自由を真ん中にマッピングをみんなでしてみました。
・束縛がない
・拘束がない(学生だから“校則”がないかも)
・好きなことができる
・挑戦できる
小学生「そくばくかんって?」
高校生「窮屈じゃない、ってこと。押さえつけられるとか…」
ファ「しつこい感じがないこと?」
高校生「そうそう!」
(てつがくカフェでは、一番年齢の下の子が分かる言葉で話すことがルールになっています。一番下の子が分からないって言ったら、説明をしなくちゃいけません(‘ω’))
Aさん「私は、逆に“責任”って言葉が伴うって気がしちゃいます」
ファ「確かに!それもありますね。今お話しいただいたことは心理的距離の問題と物理的距離の問題の2つがある気がします。
ちょっと、ここで実験をしましょう。」
(ファシリテーター、おもむろにテープを取り出す。2人組になってもらい、顔の位置までテープの端を引き上げてピーンと張ってもらい、片方に徐々に近づいて行ってもらう。)
どんどん距離が縮まっても嫌な感じがしない人がいる一方で、距離が保てないと安心できない人もいる。
ファ「テープを持つ相手によって距離の差が生まれたのはなんでだろう」
Bさん(女)「同性や子どもだと距離は近いけれど、異性だと距離が遠くなりました」
ファ「それって何が理由かなって思い当たるところがありますか?」
Bさん(女)「私の方の問題なんです。同性だと、この距離でも平気じゃないかって思えるんですが、異性だと失礼な気がして…」
男性側にも聞いてみましたが、同意見でした。なんだか悪い気がして。
自分が嫌だと言うより遠慮の気持ちが強いのだそう。
今回のメンバーでは多くの方も同意見みたい。
少数意見では目線や間合いっていう人もいましたね~。
さて、物理的距離が分かったところで、今度は心理的距離に焦点を当てていきましたよ。
私が特に気になったのは「誰にも影響されてない感じ」という意見の
“影響”というもの。
本人に伺ったら「何でも誰かがいれば、その人の感情って周りに広がっていくものじゃないですか。それが自分に届かない感じです!」とのこと。言葉や態度でなくても波紋のように周りに影響が広がる感覚なんですね。(なるほど)
「誰にも邪魔されない感覚」というのが「自分の悩みも吹っ飛んでいく感覚であったり、付随する不自由より、今、選択しているものが勝る感覚」だというのも興味深かったです。
「家にいたい派」と「外に出たい派」でどっちが自由かで熱いトークも繰り広げられました。
小学生の「お母さんが買い物に行っていないとき」というのもありました。
これがこの後大きく展開していきます。
高校生「私は、だれも家にいない感覚は返って怖い。自由とは真逆ななかにいる気がする」
中学生「分かる!私も同意見」
ファ「誰もいない感覚と誰かがいる感覚は、何が違うんだろう?」
Eさん「…“安心”…じゃないですかね」
先ほど言っていた中高生もそれは分かる!と。
つまり、【安心感】は自由の大きな土台になる?そう言ってみたところ、別の意見も出ました。
Dさん(女)「私は、ドキドキワクワクの方が大きくて、そこに安心感はない感じです。」
Eさん(男)「私も同意見です。目の前に別の世界が広がっていく感覚の方が自由という感じがします。」
それはもしかしたら、【静】と【動】が自由の中にあるからかもしれません。人が自由だと考える理由の中には心が穏やかでゆったり(まったり)できることもありますから、ゆったりできる条件のなかに安心感があるのでしょう。一方で、己の好奇心に従って動けることも自由を感じるというのもある。外部によって満たされる、内部より満ちていく、その両方が自由であるのかも。つまり、個々が欲する自由とは今望んでいるものがどちらかに寄っただけ…ということかもしれませんね。
友達関係で時々起こる不自由さは年齢関係ないかもと女性陣が頷く一方で、男性陣は首をかしげる
逆に、不自由さを感じるという中に、
その差の違いを認識してもらえず強い誘いをしてくる友人に対して、不満を感じる時があると答えた学生もいました。自分の望む価値基準が軽視されたことに強いストレスを受けたようです。(世間でいう「ダル絡み」がこれかも。なかなか的を射た良い表現ですね。)
では、【何が荒らされないことが、自分にとっての自由になるのか】でしょう。全員で明文化してみることにしました。
・気持ち
・平穏
・自分の意思(決定権)
・(もっと弱いものでいい=)決定権
・時間
言葉に差はあれど、どれもがアイデンティティー(他ならぬ“自分”であるという感覚)が保たてる条件であることには変わりなく、個人的には一言で言うなら「アイデンティティーが保てることが自由であるのかもしれない」と感じました。
しかし、ここで興味深いやりとりもでてきました。
女性の集団となりやすい社会の中に、なんとなくグループや指定席などが生まれるというのです。
Dさん(女)「名前のつかない【枠】【形】【場所】がおのずと生まれていて、それを当然のものとして主張する人がいます。これも安心感の範囲かしら。であれば、その女性は何でもって安心ととらえたんだろう。」
男性陣に聞いてみましたが、男性たちに事例は見当たらないとのこと。年齢もバランスよく離れている3人なので、時代が…というわけではないかも。
大変深いテーマが見えてきました。
時間になったので、今日はこの辺でおしまいにしましょう、となりましたがもちろん話は尽きず…。次回は「女性脳、男性脳による思考の差」で今回の続きも踏まえた対話ができたらいいなと思っています。