「老い」や「死」を先取りする経験 

女性の参加者から、ぜひともみんなに訊いてみたいという質問が。

 

まずは女性陣に。

 

「出産した直後のこと。自分の場合は、思考が止まってしまって、覚えることもできなくなって、頭に浮かんだことや言うべきことは『いま伝えなきゃ!』と思ってしまって、そのまま言葉に出していた時期があった。言葉を止めてしまうと、モヤモヤ、イライラしてしまうから、相手の事情などお構いなしに、自分のタイミングで言葉にしていた。思い返すと、これって、かなり高齢のお年寄りのケースと似ているのかな、と。つまり、『出産』という経験が、ある意味で『老い』を先取りしているのではないか

 

そして、男性陣への質問。

 

「同じような経験が、男性にもあるかどうか。出産とは違うにしても、何か似たような現象があれば教えてほしい」

 

とてもおもしろい観点だと思いました。

 

あるお母さん:「自分の場合、それはなかった。でも、確かに、気は立っていた」

別のお母さん:「すごくわかる。自分で何を言っているかわからない時期があった」

別のお母さん:「確かに、イライラはあった」

 

あるお父さん:「出産という経験がないので、わからないが、きっと女性のほうが子どもとの結びつきは強いのかなと思う。子どもが自分の身体から出てくるところを経験しているから。それに比べると、男にとって、子どもは、どうしても他人という感覚があるかも」

 

妊娠・出産は、他の事象と安易に類比的に語ることを許さない独特の経験だと思うので、考えるのが難しいですね・・・。単純に仕事が忙しくてイライラしたり、次々に案件が降ってきてパニック気味になったりすることは、誰にでもあると思いますが、たぶんそれとは違う気もします。

ただ、一つ言えそうなことは、人間は、初めての経験や新しい経験に対しては、緊張したり、神経質になったり、うまくいかなければパニックを起こしたりするものだ、ということです。生活環境が変わったり、職場が変わったりして、初めて経験すること、初めて接する人々が増えると、心身の状態がバランスを崩すことはありそうです。その点では、男女関係なく起こりうる現象だと言えそうですが、はたして出産という出来事が、それと同列に語られてよいかどうか。

 

ここで、ある男性参加者から、次のようなコメントが。

 

妊娠・出産の経験とは少し違うが、『老い』を先取りする経験というのは、あるかもしれない。日常的な出来事であっても、自動車のブレーキの踏み間違えとか、普通に考えたら絶対にそんなことしないでしょう、というようなことを、お年寄りはすることがある。そういう姿を見ると、『ああ、老いというのは、こういう仕方で始まるんだ』という感覚が生じる」

 

なるほど。他者の「老い」を通して、いずれやって来るであろう自己の「老い」を予測する経験

 

■人生に「爪痕を残す」ということ

 

ある参加者から、次のような問いかけが。

「自分は、やりたいことがたくさんあって、できるならば何でもやってみよう、と考える性格。やめておこう、というふうに制限をかけたり、先延ばしにしたりするのではなく、成果が出るかどうかはともかく、とりあえずやってみよう、という生き方。みなさんは、どうか?」

これには同意見という人が何人もいました。

「人生設計や計算とは別のところで、ある日、パッタリ死ぬのもいい」

「人生はカウントダウンではない。いつ死んでもいいように、その日、そのときにやりたいことをやって生きる。子どもたちにも、いつも、そう伝えている」ある一定の年齢を過ぎると、しばしば「人生の終わり」が気になり始めます。例えば、仕事でやりたいことがある人は、定年退職の年齢から逆算して、あと何年で何ができるか、を考え始めるでしょう。日常生活においても、高齢になればなるほど、

 

あと何回、できるか。

あと何回、会えるか。

あと何回、行けるか。

あと何回、食べられるか。

 

と、心の中で数え始めるかもしれません。周囲の人がどんどん亡くなっていくのを目にすると、「自分も、いつかは・・・」と思って、いわゆる「終活」を始める人もいるでしょう。私の親も、終活を始めました。せっせと積み上げてきたもの、溜め込んできたものを、減らし始めました。

これはつまり、人生を一本の線と見なして、その線上に「始点」と「終点」があるとする考え方です。でも、人生とは、どこが始点で、どこが終点か、じつはよくわかりません。いつ死ぬかわからないという意味では、いつでも「終点」になりえますし、じつは自分の人生がいつ「始まった」のかさえ、よくわかりません(自分の人生が「ここから始まった」という記憶がないのですから・・・)。親から聞かされた「誕生日」なるものを手掛かりに、何年前の何月何日に、自分はこの世に生まれた、と思い込んでいるだけです。

でも、生きているのは、「今」であって、じつは存在するのは「今」しかない、という考え方もできます。そのまさに「今」こそが「人生」であって、今やりたいことをやらないで、いつやるのか。

 

ここから、〈自分が生きた証を、どうやって残すか〉という話題に展開しました。

 

ある参加者は、「爪痕を残す」という表現をしてくれました。自分の死後も、自分が何かをしたという証を残したい。それを、どういう形で残すか。

例えば、研究者であれば、自分の研究成果を「論文」という形で世に残したいと考えるかもしれません。自分が生きているあいだは、楽しいからやっているので、その満足感や喜びだけでよいかもしれませんが、自分が死んでしまえば、そこで研究という行為は終わります。そのときに、自分が追究してきたものも、無になってしまうのか。もしも、それを後世に残そうと思えば、文字や絵、創作物といった形に仕上げなければなりません。学者にとっては、それが論文であり、小説家にとっては小説であり、建築士にとっては建造物であり、作曲家にとっては楽曲なのかもしれません。

ある参加者が述べてくれたように、「自分の子ども」というのは、まさにその最たるものと言えるのかもしれません。

また、別の参加者からは、「生まれてくるだけで爪痕」という意見も出ました。この世に生まれてきた時点で、すでに爪痕を残している。何もしなくても、生まれたということ自体が「爪痕」そのものなのだ、と。一人でも欠けたら、世界は、今とは違ったものになっているはず。パラレル・ワールド(並行世界)のように、別の世界になっているはず。だから、いま世界に存在している人は、どの人もこの世界を構成するために欠かせないのだ、と。

 

すてきな考え方だと思いました。

 

この問題は、「自然死」や「老衰」だけでなく、「事故死」や「病死」といった 「突然に迎える死」についても当てはまります。人は、自然に老化して死を迎えることに加えて、突然に死を迎えることもあります。覚悟して迎える死と、突然迎える死。それに応じて、見方が少し変わってくるかもしれません。

今回は、主に「自然死・老衰」を話の軸にしたので、「突然死」については、またの機会に改めて対話してみよう、ということになりました。

また、先ほど「老いを先取りする経験」に言及しましたが、「死の先取り」という意味では、じつは私たちは、毎晩、「眠り」という意識の中断を経験しているということを、ある参加者が指摘してくれました。

意識の中断といえば、じつは私も、以前に、突然、気を失った(失神? 気絶?)ことがありました。わずか数十秒だったようですが、まさに「突然に」、「意識の中断」が訪れたわけです。目が覚めたあとに、「もしもこのまま目を覚まさなければ、どうなっただろうか・・・」と思いました。

 

他にも、対話中にいろんな意見が出ました。

 

「自分の祖父は、認知症になったとき、なんでも人にくれようとした。何でも与えようとする側の人間というのは、すごいなと思った」

若い頃は、主観で物事を見ていたが、歳を経て、俯瞰して見れるようになった。死は必ずしもマイナスな出来事ではない。死んでいく者にとっても、残される者にとっても、マイナスなだけで終わるものではい」

「存在していることと、存在していないこととは、そんなに変わらないのではないか」

「自分がこの世に存在したという痕跡を一切残さない生き方もアリ。地球上に自分が一瞬も存在しなかった世界を想像すると、おもしろい」

さらには、「姥捨て山」の話から、「将棋」の話まで、盛りだくさんの対話でした。

 

いつもながら、アッというまの2時間でした。

 

次回も楽しみです。