「哲学カフェ」報告

 

~積み上げるものと失うもの ~生と死について~

 

心と向き合い、考えを深め合う夜の時間。

参加者は、途中参加・途中退室の人を含め、11人。

今回のテーマは、「積み上げるものと失うもの ~生と死について~」。

周りの人たちが老いていくのを見ると、なんだか、心がザワザワ。

それまではできていたことが、できなくなったり、覚えていたことを忘れていたり。

身近な人の死を目にしたとき、ふと思う。必死に積み上げてきた人生って、なんだったのだろう?

 

若いこと ⇔ 老いること

元気でいること ⇔ 病気になること

生きていること ⇔ 死んでいくこと

 

これらは、反対のことなのだろうか? それとも一本の線上の出来事だろうか?

前進なのか? 後退なのか?

成長なのか? 衰退なのか?

それとも、一周まわって、どこかに戻るのだろうか?

 

生きているって、なんとなく、いろんなものが増えていく感じがするけど、逆に、減っているものもあるような。

積み上がっているものもあるけど、反対に、失っていくものもあるような。

そんなモヤモヤについて、みんなで話し合ってみました。

 

どんな対話だったか、流れに沿って(ところどころ再構成しつつ)報告してみたいと思います。

 

対話を開始するにあたって、まずは一人ずつ簡単な自己紹介から。

みなさん、親戚や家族を亡くしたという人が、けっこういらっしゃいました。いとこが逝去したり、祖父母が他界したり。

そういうのを目にすると、ふと考えてしまう――

幸せって、なんだろう?

生きる意味って、なんだろう?

今回、参加してくださった人の中には、物心ついたときから生と死について考えていた、という方もいらっしゃいました。

 

■老いって、なんだろう?

最初に口火を切ってくれた人から、みんなに投げかけられた質問。

老いることは、失うことなのか?

それを受けて、ある人が、親戚を亡くしたときの実体験をまじえて話してくれました。老いるとは、積み上げてきたものを、減らしていくことなのかもしれない。歳を取ると、いずれは介助が必要になる。喋れなくなり、歩けなくなり、食事や排泄も自力ではできなくなる。これって、もしかして赤ちゃんと一緒なのではないか。私たちが生まれたばかりのときと一緒の現象。そう考えると、老いるとは、赤ちゃんに戻ることなのかも?

 

老いることは、一周まわって元に戻ること。

 

その方は、続けて、次のように話してくれました。

自分の親戚が介助を必要とする状態になったとき、いろいろなことを許せた。自分の中で納得できた。一周して赤ちゃんに戻ったのだとすれば、納得がいく。80歳のおじいさんならば世間的に許されないことでも、赤ちゃんならば許せることもある、という感覚。

 

自分の家族の場合だと、老衰に伴って、嫌な面が見えてしまうことがあります。参加者の言葉を使えば、それが「残酷な現実」です。でも、赤ちゃんだと思えば、許せることもあるのかもしれません。

 

それを受けて、別の人が発言。

「自分の場合、おばあちゃんが、年々、神々しくなっている」

おお!

「深々とおじぎをする。他者に対して、こんなふうに感謝できるって、すごいこと」m(_ _)m

 

確かに、ある特定の高齢の方を目の前にして、時折、「この人には敵わないなぁ」と感じることがあります。若い頃に比べれば、身体は衰えているはずなのに、足腰は弱くなっているのに、どうしてこんなにも神々しいのか。

そういう人に出会うと、自然と「畏敬」の念が湧き起ります。

そうすると、〈肉体的なもの〉と〈精神的なもの〉の関係は、どうなっているんだろう?

 

先ほどの人が、こんなふうに述べてくれました。

「確かに、見えない部分は、年齢に反比例して――むしろ二次関数的に――増加していくかもしれない」

単純に赤ちゃんに戻る、ってわけでもなさそう?

 

ここで、対話に参加してくれた中学1年生が発言。

「でも、それって、へん」

なにが?

「増えてるのに、減ってるって、矛盾してる」

むむむ・・・

「しかも、減ってるって、どこまで減ってるの? ゼロより下になるの?」

うーむ・・・

「元に戻るんじゃなくて、積み上げていったものが、少し減るだけじゃないの?」

 

「元に戻る」というときの、「元」とは何なのか? どこに戻るのか? 戻った先は、赤ちゃんと同じ場所なのか? お年寄りは、はたして何かが「減っている」のか、「増えている」のか。

 

ここで、2児のお母さんから、こんな意見が。

「私よりも、自分の母親のほうが、子ども(孫)と遊ぶのが上手。年齢が近いのかな? トランプなどのゲームをしていても、負けてあげるのが上手で、見ていて感心する。人生のピークは40~50歳で、そこから降りていくと幼児に近くなって、もっと下がると赤ちゃんに似てくるのかも」

 

わかる! 私の知っている高齢者の方々も、子どもと遊ぶのが上手な人が多いです。子どもの上手な「あしらい方」を知っているというか、手加減を知っている。若いときは、子ども相手でも張り合おうとしてしまうとき、ありますよね(それを世間では、「大人げない」と言います)。

 

お年寄りが子どもと遊ぶときの、懐の広さというか、寛容さというか、なんなのでしょうか? 子どものやること、言うことを、すべて受け止めてしまう。子どものすべてを許してしまう。無条件の許し。

 

もちろん、いろんな要素はあるでしょう。自分の孫に対しては、「親」ではなく「祖父母」の立場だから、叱る必要もないし、しつけるつもりもない。「祖父母」と「親」では責任感の度合いも違うでしょう。案外、孫のことがただひたすら可愛くて仕方がないだけかもしれません。それに、すでに定年退職していれば、親の世代よりは忙しくないでしょうから、心に余裕があるのかもしれません。

 

それでも、子どもと上手に遊ぶというのは、それなりに高度なスキルであることは確かだと思います。少なくとも、子どもと同じ目線、子どもと同じ精神状態を共有していなければ成立しないように思います。それって、やっぱりすごいこと。

 

てことは、やっぱり幼児に近くなっている? 肉体的には歳を重ねているけど、精神は幼児と近くなっている? 少なくとも、幼児と遊べるくらいには、幼児の心を共有している?

 

ここで思うのは、本当に幼児と近くなっているのか、それとも、幼児に近くなった「ふり」をしているだけなのか。小さい子どもとゲームをして、わざと負けてあげる場合、あくまでも「わざと」負けてあげているのであって、本当に負けているわけではありませんよね。幼児とゲームをして、わざと負けてあげることができるためには、おそらく幼児よりも精神年齢は高くなければなりません。ということは、やっぱり、おじいちゃん・おばあちゃんのほうが上?うーん、そうすると、高齢者は、幼児に「近く」なっているけれども、幼児と「同じ」ではないってこと?

 

幼児ではないけれど、幼児に近い何かを持っていて、なおかつ幼児の上にいる?

そうだとしたら、すごい存在だ・・・。

 

肉体と、スキルと、心のあり方の関係って、むずかしい。

ある参加者が、次のような意見を披露してくれました。

人生とは、石ころを拾っていく行為に似ている。老いると、拾う石ころの数は減る。でも、石の質が下がるとは限らない。つまり、これは

 

「量」と「質」の議論になるのではないか。人生とは、トータルで見たときの量と質のバランスだと思うが、どこに着目するかで判断が変わってくる。質の議論をするならば、老化は一概に劣化ではないかもしれない。

 

別の参加者も、頷きながら、「何に価値を置くのか、という話になってくると思う」。

 

ちなみに、この話題の最中、先ほどの中学1年生が、ズバリ。

「大人になると、心が廃れてくると思う」

うっ・・・{汗}

どういうこと?

「幼稚園のときは、あまり喧嘩なんかしなかったし、喧嘩しても小さなことだったけど、小学生、中学生、と年齢が上がるにつれて、殴り合ったり、つかみ合ったり、激しくなる。これって、心が荒んできているってことじゃないかな、って思った」

 

なるほど。そうかもしれないなー。大人になると、純真だった何かが色あせて、少しずつ荒廃していくのかも。

 

名言: 大人になるとは、心が廃れることである。

(続く)