~~~~~~~~~~~オンライン哲学対話(93日)報告~~~~~~~~~~~

 

久しぶりのママ哲でした。

約半年ぶり。

しかも、リモート対話。

 

前々から、あすなろのメンバーから、

「目下のゴタゴタではなく、根源的な対話がしたい」

「あー哲学カフェやりたい!!」

「哲学が枯渇してます」

とメッセージを頂戴していたのですが、私がなんだかんだと先延ばしにしていて、やっと!再開できました。

 

今回は、勘を取り戻すための試運転ということで、ごく少数で、ざっくばらんに近況報告を兼ねた対話をしてみました。

大まかなテーマは、

「ゆるりと語ろう

 ~コロナの前と後

 今まで と これから

 日常の変化~」

 

学校。

仕事。

おうちのこと。

以前と比べて、何か変わったことってある?

孤独、不安、我慢。

自由、権利、義務。

 

そこへ、参加者からの当日の希望で、「日本は、ヨーロッパの国々と比べて、なんでこんなに幸福度指数が低いのか」という疑問も加えて、

コロナの前と後で変わったこと、

そこから見えてくる「幸せ」のあり方とは?

 

コロナの前と後、その変化は? 幸せな暮らしは、いずこへ?

 

まず、もこさんからの質問。

新型コロナの影響で、

友人の変化、

仕事の変化、

家庭の変化、

いろんな変化があったと思うのですが、

コロナの前と後で、この変化は「アリ」か「ナシ」か。

 

いろいろな回答がありました。

ある人は、

「友人が限定された」。

新型コロナの影響が拡大してから、関わる人と、関わらない人に分かれ始めた。

そのぶん、付き合い方がラクになったし、いろいろめんどうくさいことを気にしなくなった。

そんな意見が挙がりました。

 

家庭に関しては、

「ポンコツになった(笑)」そうです。

お母さんというものは、日々、やらなければいけないことや、気にかけなければいけないことがいっぱいあるのです。そんなことが多すぎて、もうお母さんは生きていけません! そうカミングアウトしたとか。

四六時中、子どもたちと家にいるので、あえていろいろ見せることで、子どもたちが、いろいろ気づくようになったそうです。

 

別の参加者からの報告。

コロナ禍以降、いくつかの仕事のうち、依頼や活動がほぼゼロになっているものもある。

家庭に関して言えば、日中、家族がこんなにも顔を会わせて過ごす日が続くなんてことは、これまでなかった。

 

さらに別の参加者の報告によれば、

旦那さんに、コロナ騒動が起こってから、「あってよかった」と思うことを尋ねてみたところ、「家族」。

 

安心と不安。

満足と不満。

得たものと失ったもの。

 

いつもと違う日常。

しかもそれが数ヵ月も続いたことで、多かれ少なかれ、ストレスを感じていることが、会話の端々から窺い知れました。

種類や程度は違っても、この数ヵ月、皆それぞれに「我慢」をしてきたに違いありません。

 

ある参加者が言いました。

幸せというのは、不平や不満がない状態のことなのではないか(経済的、精神的)。

とすると、もしも日本人の「幸福度」が低いというのが本当だとすれば、日本人は、日常生活にどこか「不満」や「不平」を抱いているのかもしれない、という推測が成り立ちます。

この「不満」は、「我慢」の裏返しなのかもしれません。

日本人って、我慢する人が多い、と言われますよね。

不満があっても、それを大っぴらに主張できたり、不満を解消するために堂々と戦えたり、別の仕方で発散できたりすれば、精神の安定は保てるかもしれません。

でも、「我慢」しなければならないと、どんどん心の中に良くないものが溜まっていって、閉塞感と疲労感だけが蓄積されていきますよね。

そう考えると、「不満」そのものよりも、むしろ「我慢」が多いと、幸福度が下がるのかも?

そんなことを考えながら、話を聴いていました。

 

そして、まさにこの「我慢」を強いられたのが、ここ半年の暮らしだったのだと思います。

ある参加者の次のような発言を、私は興味深く聴いていました。

この半年、私たちは、それぞれの仕方で新型コロナウィルスによる影響と向き合ってきた。

この影響はすぐには収束しないように思われる。少なくとも、あと半年、一年は、続く可能性が高い。

そこで、世間では、今後もコロナウィルスと付き合っていかなければいけないという「あきらめ」モードがある。

しかし、今日、対話に参加した人々の意見を聴くと、コロナとの今後の付き合い方について、互いの感じ方に「共感」することで、ポジティブに関わっていく姿勢が感じられた。

「あきらめ」ではなく、「共感」による現状肯定。

共感による、苦難の乗り越え。

なるほど、と思いました。

「他者との共感」が、「状況との共生」につながることもあるのかもしれない、と思いました。

 

それを受けて、別の参加者が、

「共感というよりは、変化ごと楽しんじゃえ、というシンプルな気持ちもあるかも」。

 

デジタル時代の対話とは?

 

そこから、あちこちに話が展開して、オンライン会議やリモート授業などの「遠隔」がアタリマエとなった社会について、対話は進みました。

今やYouTubeやニコニコ動画、Twitterやインスタグラムが、趣味・暇つぶしの基本ツールになった世代。

四六時中、スマホを触り、数分おきにスマホの画面を覗く。

空き時間には、すかさずオンラインゲーム。

こんな時代ですから、今後、流れ的に、オンラインで済むものはオンラインでやればいい、というふうに当然なるでしょう。

学校も、例外ではありません。各国で、徐々に動画配信型の授業が普及しつつありますし、近未来社会では、授業を受けるためにわざわざ登校する必要すらなくなるかもしれません。黒板の前に立って、板書しながら滔々と語る授業スタイルに代わって、自室からパソコンを使って学生とつながり、スライドと動画を使って授業をする先生が多勢になるかもしれません。

「黒板を使わないと授業ができない」とか、「コンピューターがうまく使えない」なんて言っている文系教員は、いずれ淘汰される日が来るかもしれません。

この予感は、今回のコロナ禍で、現実味を帯びました。

日本全国の大学で、一斉に遠隔授業を余儀なくされるという、人類史上、初めての経験を、私たちは引き受けなければならなかったからです。

ここまでの本格的なリモート授業は、日本では初めてのことなので、自信がある人なんて誰もいません。でも、うかつに学生たちを教室に集めて授業するわけにはいかないので、つべこべ言わずに、この状況を乗り切るしかありません。

この状況で、なお教育をストップしたくなければ、 失敗覚悟でやるしかない。あれやこれやと模索しながら、前に進むしかない。

はっきりと、教育機関の「器」が問われたのが、2020年の上半期でした。もはや「うちの学科はムリ」とか、「私の授業は性質的にオンラインに合わない」などと言っている場合ではなくて、やれるのか、やれないのか、それだけが、問われています。

感染症と戦い(あるいは共存し)ながら、一定の質を保った高等教育を維持するためには、情報技術を活用せざるをえないところまで追い込まれています。

そして、やってみたら、案外、できるじゃん。

 

このようなオンライン化へのシフトは、社会の多くの領域で起こるでしょう。今後、デジタル活用が加速することはあっても、減速することはないように思えます。すでに走り出したものを、今さら止めることはできなさそうですし、はたして止めたほうがよいのかどうかも分かりません。

 

そこで私も、新たな課題に直面しています。

オンラインとなったとき、「哲学対話」をどうすればよいのか。

一昔前はインターネットがなかったから、わざわざ会場に集まって円座して対話をしたわけですが、社会の運行がオンラインベースになれば、当然、対話もオンラインになるはずです。そして、他のことがオンラインでできるのであれば、対話もオンラインでできなければ、おかしいはずです。逆に言えば、オンライン文化に合わせた対話様式が、おのずと形成されてくるはずです。

「オンライン婚活」や「オンライン飲み会」がある時代ですから、「オンライン哲学対話」だって、できなきゃ情けないですよね。

次世代型の対話形態を、真面目に検討する段階に突入したと感じています。

もしもオンラインでも、対面のときと同じ水準を保った「バーチャル哲学対話」が可能となったとき、私たちが改めて直視しなければならない問いは、次のことです。

「対面」のたぐいまれなる美点とは何なのか(そんなものが本当にあるのかどうか)。

今日の対話でも、最後に、少しその話題が出ました。

対面の良さって、なんだろう?

生身のカラダで、その場にいることの良さ。

リアルな肉体をもってしか経験できないこと。

匂い。

肌で感じる風。

 

感覚。

 

五感。

 

じゃあ、五感も、バーチャルに再現できるとしたら?

VR(仮想現実)」や「AR(拡張現実)」って、そういう技術ですよね。

 

いまだに「カセットテープ」でたまに音楽を聴くアナログ人間の私としては、デジタルが決して入り込めない領域を、死守したいところですが。

デジタルとの「共存」ならいいんですけど・・・

アナログの「排除」は、ちょっとなぁ・・・

 

とりとめもなく展開した対話でしたが、今回も、いろんなことを考えさせられました。

これもまた、インターネット技術のおかげ。

インターネットがあるから、この状況でも、遠く離れた人たちと「対話」ができる。

ありがたい、と思いながら、

でも、なんか悔しい。

 

オンラインじゃできないことが、この世にはあるんだぜ。

 

そんなふうに心の中でつぶやきながら。

でも、それを声を大にして叫ぶには、もうしばらく精進が必要のようです。

 

晴れてコロナ以前の日常が戻ったときに、

やっぱり「対面」っていいよね、と言えるように。

本当にそう言えるのかどうか。

それを見極めるためにも、やはりオンライン哲学対話を続けなきゃいけない、と思いました。

 

江口 建